オーストラリア辞典
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Robinson, George Augustus

ロビンソン、ジョージ・オーガスタス


1788-1866
ロンドン生まれ。
アボリジナルの保護官。


 ロビンソンの少年時代は不明な点が多い。公教育はほとんど受けていないが、広く書物に親しんだ。父と同じ職業を選び建設関係の仕事につくが、不景気によりうまくいかず、1824年にオーストラリアに移住する。移住当初はホバートに住み、建設業を始めた。1829年に、当時のタスマニア副総督ジョージ・アーサーが、「まじめな、性格のよい人間」で、ブルーニー島に居住し、アボリジナル対策の任に当たり、「この不運なる人種との交流を効果的に行うことに興味をもつ」人材を募集した。1829年に彼はこれに応募採用された。

 彼は北ブルーニーのミッショナリー湾に、500エーカーのアボリジナル収容施設を建設したが、持ち込まれた伝染病により多くのアボリジナルが死亡し、この施設は1830年に閉鎖された。ロビンソンは、その後タスマニアじゅうを探検し、アボリジナルと接触して、彼らを説得して抵抗をやめさせ、フリンダーズ島へ送った。1835年から1839年には、タスマニア島内のアボリジナルを集めたフリンダーズ島の収容施設の指揮官となった。1838年に、彼はニューサウスウェールズにおけるアボリジナルの保護官という地位を得て、翌年ポートフィリップ地方に配属された。フリンダーズ島ではアボリジナルの文明化を試みたが、それらはことごとく失敗した。アボリジナルの生活は改善せず、集められた人々の数は減り続けた。アボリジナルの保護官としてポートフィリップに向かった時には、タスマニアのアボリジナルを連れていたが、アボリジナルたちは彼への信頼を失い、彼のもとを離れた。保護官としてはまったく無能であり、入植者たちの土地を求める圧力の前には何の抵抗も示さず、アボリジナルを保護することに失敗した。1849年にはこの保護官制度も廃止された。ロビンソンは、1851年にタスマニアに戻り、オイスター湾を訪れるが、そこで彼が出会ったのは、彼が集めたアボリジナルの中で生き残ったわずか30人であった。その後ロビンソンは、オーストラリアを離れ、イギリスに住み、1866年にバースで死亡した。

 ロビンソンはタスマニアのアボリジナルの人々に善意で接しようとしたのだが、結果的には残酷な仕打ちになった。しかし彼は、タスマニア、ヴィクトリア両地域の活動の中で、詳細な記録や日記を書き残し、これらはヴィクトリアとタスマニアのアボリジナル社会の貴重な資料となっている。これらの記録の一部は、N.J.B.プロムリPlomleyが、Friendly Mission: the Tasmanian Journals and Papers of George Augustus Robinson 1929-1834と題して1966年に出版した。フリンダーズ島での記録や他の記録も出版されている。

 安井倫子1201