オーストラリア辞典
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Robertson, John

ロバートソン、ジョン


1816-1891
ミドルセックス、イギリス生まれ。
牧羊家、政治家、ニューサウスウェールズ首相(1860-61、1868-70、1875-7、1885-86)。


 ジョン・ロバートソンは、1816年10月15日に、ロンドンの郊外で、時計工の父ジェームズと母アンナ・マリアの間に生まれた。ジェームズは総督ブリスベンの友人で、その勧めに従って、家族とともに1822年にニューサウスウェールズに渡った。ジョンは少年期、J.D.ラングの学校に通い、生涯ラングと親交を持った。一時イギリスに渡航した後、1835年にスクオッターとなった。その後土地を購入し、約2万エーカーの土地をリヴァプール平原で占有した。ロバートソンはギップス総督の政策には反対したが、スクオッターの過大な要求にも反対し、植民地の自治と民主的政治システムを求めるようになった。

 1850年の選挙法の不公平さに憤慨し、ウェントワースの保守的な憲法草案に反対する運動を展開した。民衆のロバートソンへの信頼は厚く、1856年の立法議会選挙では、選挙運動なしに当選した。これが彼の長い政治家としてのキャリアの始まりであった。彼の選挙公約は普通選挙、秘密投票、平等な議席配分、国民教育、宗教への援助の廃止、自由貿易、土地の測量前の分配などであった。この主張の多くは、植民地リベラル派の共通の課題であったが、最も困難な問題は土地問題であった。1856年から1886年まで、ロバートソンはニューサウスウェールズ下院のリベラル派の一員であった。

 ロバートソンは最初のリベラル派政府による土地法案に反対した。それは、土地がスクオッターから必要に応じて回収され、測量された後、オークションにかけられるというものだった。ロバートソンは、土地測量前に、スクオッターの借地のいかなる場所でも、土地購入者が必要な土地を自由に選択し、一定の価格で購入できるようにすべきであると主張した。彼はその主張のおかげで多くの支持を得た。リベラル派指導者クーパーは、ロバートソンの法案に対する反対を取り下げ、それを支持するようになった。総選挙に勝利した後、クーパーとロバートソンは上院において優勢な保守派を新議員の任命によって再構築し、1861年に土地法案を成立させた。

 ロバートソンのヴィジョンは土地法成立以後の時代を見据えるものではなかった。1863年にはクーパー内閣が倒れ、これ以後派閥の指導者が頻繁に入れ替わり政権を担当する派閥政治の時代に入った。1868-70年に第2次内閣を組成したが、破産したことにより辞任した。しかし、すぐに復活し、クーパー内閣崩壊後、仇敵マーティンの政権に加わり人々を驚かせた。1872年の選挙の敗北で、マーティンに代わり野党のリーダーとなり、1875年には3度目の組閣をすることになった。1877年3月に内閣が倒れると、選挙後議会は分裂状況に陥り、少数派ファーネル政権が生まれた。1878年12月敵対関係にあったロバートソンとパークスが連合し、強力な政権が生まれた。ロバートソンは立法評議会議員となり、政府を上院で代表することになった。この内閣は派閥政治の中で最も多くの重要な法案を成立させることに成功した。1881年12月から82年8月までロバートソンは首相代理を務めている。この内閣は1883年1月に崩壊し、その後ロバートソンは1885年12月22日から1886年2月25日に最後の短命な内閣を率いた。しかし6月に議員を辞任し、政府は1万ポンドの功労金を彼に与えた。ロバートソンにとって、オーストラリアとはニューサウスウェールズであり、ヴィクトリアの行動を常に批判的に見ていた。彼はニューサウスウェールズの連邦評議会への参加に反対し、連邦運動を批判し続けた。また自由貿易派の政党化にも批判的であった。1891年5月8日ワトソンズ・ベイで息をひきとった。

 西川俊紀1101