オーストラリア辞典
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Reid, George Houston

リード、ジョージ・ヒューストン


1845-1918
スコットランド生まれ。
ニューサウスウェールズ首相(1894-99)、連邦首相(1904-1905)、ロンドン駐在高等弁務官(1910-16)、英下院議員(1916-18)。


 1845年2月25日、長老派の牧師である父ジョン・リードの末子としてスコットランドで生まれる。

 リードとその家族は1852年にメルボルンに移住し、リードはメルボルン・アカデミー(スコッチ・カレッジ)で読み書きを習った。1858年、彼が13歳の時に、一家はシドニーへ移った。彼は学校を退学し、その後は事務員として働いた。1864年、リードは植民地財務省の副会計士になり、順調な出世を遂げた。15歳の時にシドニーの技術学校の討論会のメンバーとなり、やがてそこの主要なメンバーとなった。政治的な野心から法律を勉強し、1879年に弁護士になった。役人は議員になることはできなかったが、弁護士となることで政界への道が開かれたのである。リードは1880年から1884年の間と、1885年から1901年までの間、ニューサウスウェールズ立法議会の議員であり、自由貿易の原則を一貫して主張し続けた。自由貿易派のリーダーであったヘンリー・パークスとは相容れず、たび重なる入閣要請を拒否し続けた。パークス政権崩壊後、自由貿易派のリーダーとなり、1894年から1899年までの間、首相兼財務相の地位にあった。リードは経済活動を国家の支出で支え、土地税を導入し、「非政治的」公共サービスの基盤をつくった。連邦運動に対する態度から「イエス・ノー・リード」と揶揄されたが、1901年から1909年までの間、連邦下院議員を務めた。連邦結成に対する彼の立場は一貫したものではなかったが、1901年の連邦結成のプロセスを動かしたのは、1895年の彼のイニシアチヴであった。連邦議会でも自由貿易派を指導し、首相兼外相となって1904年から05年にかけての自由貿易派と保護貿易派の一部が連合した内閣を組織した。政権が倒れてからも、自由貿易派のリーダーから引退する1908年まで、野党を指導し続けた。リードは初めてのオーストラリア高等弁務官として1910年にロンドンに赴任し、1916年までその地位にあった。1916年にイギリスの下院議員に選ばれ、1918年にロンドンで死亡した。

 石光崇昭1101