Redfern, William
レッドファーン(レドファーン)、ウィリアム
1774?-1833
生誕地はカナダだと思われる。
外科医。
カナダで生まれたと思われるが、イングランドのウィルトシアのトロウブリッジTrowbridgeで育った。1797年6月にロンドン外科医組合の試験に合格し、スタンダード号で外科医の助手を委託されたが、直後にノアの海軍大反乱に巻きこまれた。8月27日にレッドファーンは軍法会議にかけられ、死刑を宣告された。しかし、その執行を猶予されて、4年間刑務所で過ごし、その後ミノーカ号Minorcaでニューサウスウェールズに流刑にされた。
1801年に、ニューサウスウェールズに到着した。1802年5月、ノーフォーク島で外科医の助手として働く命令を与えられた。その功績によって、1803年6月19日、キング総督は彼に完全な恩赦を与えた。1808年にシドニーに戻ると、ここで植民地副医官の地位を与えられ、レッドファーンはドーズ・ポイントにある老人や病状の悪化した患者を治療する病院で働いた。レッドファーンは、医師資格を証明する文書を持っていなかったので、植民地にいたジャミソンなどの医者による資格審査を受けた。これが植民地における初めての医療従事許可の交付となった。1818年にダーシ・ウェントワースが医官の地位を去ったとき、レッドファーンは昇進することを期待した。しかし、バサースト卿が元囚人の任命を嫌ったので、その地位は変わらなかった。1819年10月14日、彼は政府の病院を去った。総督マクウォリーは彼を治安判事に任命したが、この任命もバサーストにより取り消された。レッドファーンはマクウォリーのエマンシピスト政策のシンボルとなり、イギリス政府当局から冷淡な扱いを受けたのである。他方、レッドファーンは個人としても開業しており、植民地で最も人気のある医者となった。
レッドファーンは、1814年に囚人船での死亡率を低下させるために報告書を提出した。これは、囚人の死亡率の改善に重要な役割を果たしたと言われている。1821年1月にレッドファーンは、エドワード・イーガーEdward Eagarとともにイングランドに行くことになった。総督の許可によって解放された囚人に対しては、財産権や司法上の権利が制限されるというイギリスでの決定に抗議するのが、渡航の目的であった。レッドファーンは1821年10月27日にイングランドに到着した。そこでエマンシピストに対する制限の緩和の請願に成功し、1824年にニューサウスウェールズに戻った。
ニューサウスウェールズでは農学に傾注し、1826年には医療活動を停止した。2年後、息子に教育を受けさせるためにエディンバラへ行った。帰国を予定していたが、1833年7月にそこで死亡した。死亡時には23,190エーカーの土地の所有者になっていた。
田中沙依1101