Queensland
クィーンズランド、クイーンズランド
オーストラリア北東部の植民地colony、1901年以降は州state。1859年にニューサウスウェールズから分離して独立した植民地となった。
クィーンズランドは、1859年にニューサウスウェールズから分離し、独立した植民地となった。19世紀末までに牧羊業者、鉱夫、小農夫らがフロンティアを北と西に拡大し、クィーンズランドからパプア・ニューギニアやメラネシアに進出した。しかし、クィーンズランドの貿易と発展はシドニー、メルボルン、ロンドンによって支配されていた。その人口密度の低さ、熱帯的な気候、低開発が、粗野でたくましい「典型的な」オーストラリアを形作ったとされる。オーストラリアの伝説の典型は、クィーンズランドの牧羊と鉱山業に見られる「ブッシュマン」である。資本家と労働者の最も激しい衝突は、1891年バーコールダンで起こり、オーストラリアで初めて労働党が政権を獲得したのは、1899年のクィーンズランドにおいてのことであった。それらと平行してアボリジナルと入植者の間で多くの衝突も起こった。
牧畜業の発展に続いて、金やスズ鉱脈が発見され、そこに中国人を中心とした鉱夫が各地から集まってきた。さらにこれが19世紀の牧羊のいっそうの拡大をもたらした。農民や労働者の確保のために、イギリスやアイルランドのみならず、デンマーク、ドイツ、スカンジナヴィア半島からも補助移民が導入された。アボリジナルも牧牛業、農業、漁業に雇用されるようになった。またサトウキビ栽培のためにメラネシア人が導入された。20世紀初頭には、クィーンズランドはオーストラリアで最も様々な民族と階層が入り混じる土地になった。
1890年代、クィーンズランド植民地首相グリフィスS. W. Griffithが主要的な役割を務めていたにもかかわらず、クィーンズランドはオーストラリア連邦の結成から締め出されそうになっていた。しかし1901年、グリフィスらは植民地経済を太平洋の諸島と連携した砂糖生産から、他の植民地と協同する形へと変換することで、他の植民地の理解を得ようとした。20世紀前半のクィーンズランドは小農民のフロンティアであり、2つの団体が大きな影響力を持っていた。1つはAWUであり、国内の羊毛や北部の牧牛業のみならず、砂糖、とうもろこし、酪農産業にも影響力をもっていた。もう1つはカトリック教会であり、1920年代、人口の3分の1以上の人々に影響を与えていた。1920年代にはライアンT.J. RyanとセオドアE.G.Theodoreの指導のもと、クィーンズランド労働党政府は、労働者の疾病や失業者救済、上院の廃止といった一連の改革に乗り出した。また、カトリック学校への援助や無償の医療の提供なども試みた。しかし、農業や鉱山開発は、政府の社会福祉政策を支えたが、教育や文化振興に支出する余裕はほとんどなかった。
第2次世界大戦中には、防空壕、滑走路、全天候用の道路などが戦略目的で建設された。クィーンズランドの人々は、日本の侵略が差し迫っており、ブリスベン・ラインBrisbane Lineは自分たちを犠牲にするものだと信じていた。ブリスベン、タウンズヴィルなど北部を中心に、多くの軍隊が駐留した。この時期かなりの数のアボリジナルや中国人、メラネシア系の人々が居住していたが、当時のセンサスではアボリジナルは無視され、これらの人々に対する無視、無関心が続いた。
第2次世界大戦後、オーストラリアの他の地域が、工業化と近代化の道を進む中、クィーンズランドは相変わらず、非効率な農業と労働争議の多い鉱山業に頼っていた。戦後の移民ブームでさえクィーンズランドを素通りした。イタリア系移民は1890年代から流入していたが、第2次世界大戦でイタリアは敵国となったので、イタリア系移民も敵視された。戦後イタリア移民の間では、労働運動の高まりの中で、カトリックと共産党の間で対立が深刻化し、アイルランド・カトリック保守主義とイタリア・カトリックとの対立も巻き込んで、1954年クィーンズランドでの労働党分裂に発展した。これによってクィーンズランド労働党が生まれ、それは後に民主労働党と合流した。分裂は長年のオーストラリア労働党によるクィーンズランド政治の支配にも終わりをもたらした。同時に農業の機械化は肉体労働者の必要を減じさせた。労働組合よりも地元の商工業者や農民たちの力の方が強くなり、後に国民党となる地方党が1957年の選挙では議席を伸ばした。また地方経済は石炭や石油といった資源のために再び活気づいた。ブリスベンは活力ある近代都市へと様変わりし、1980年代にはイギリス連邦競技大会や万国博覧会を催す力を有するようになった。州は労働党の牙城から、保守的な州へと変身をとげた。
1950年代から、クィーンズランドは連邦形成以前と同じように、鉱山開発やその関連産業に重点を移すようになった。また、相続税の廃止に伴い、退職者が南部から移住するようになった。これは州の保守化に貢献したが、新しい鉱山計画、新しい空港やホテルなどが、クィーンズランドの経済発展を支えた。19年間州首相を務めた国民党のビジェルキー・ピータソンBjelke-Petersenは、プラグマティズムを政治に持ち込み、一方でワトル(アカシア)常緑樹林を開墾したり、空中からの農薬散布などに力を注いだりした。旧タイプの大衆政治家として、彼はクィーンズランドの長所と短所を体現していたといえる。
1980年代までに薬物や売春等に関連する腐敗は、町の警察官から州首相や議会にまで及んだ。1989年トニー・フィッツジェラルドを長とする調査委員会は、ビジェルキー・ピータソン政府を退陣に追い込んだ。替わって若手中心の労働党政権により、クィーンズランドの産業化が進められた。しかし、鉱山開発と牧羊産業は、アボリジナルの先住民土地権運動との対立を続けた。アボリジナルの人々が北部で生き延びられたのは、クィーンズランドの開発が遅れていたからであった。資源・環境保護と開発の対立問題は今も続いている。
クィーンズランドはその多様性のために様々な歴史書が書かれている。Raphael Cilento, Triumph in the Tropics(1959)、Ross Johnston, The Call of the Land(1982)、Jamie Walker, Goss: A Political Biography(1995)などがその代表的な例である。
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