Presbyterian Church
長老派教会、プレスビタリアン教会
長老派の名前は、この教会がその運営やリーダーシップを教会の長老、年長者に委ねていることから付けられたものである。長老派は極めてカルヴァン主義的であり、特にオーストラリアにおいては、その発生も発展もともにスコットランドからきた人々との関連が深かった。
最初に教会が組織されたのは1803年であり、この年、ホークスバリー川沿いのポートランド・ヘッドに長老派の一団が植民した。彼らは1809年にはエベニーザに教会を建立したが、この教会は今でも使用されているオーストラリアで最も古い教会である。
1823年に、最初の長老派の牧師、ジョン・ダンモア・ラングが植民地に赴任し、ラングは精力的に教会の発展に努めた。ラングは何度も本国に戻り、スコットランドから植民者と牧師を集めようとした。
植民地初期の教会は、混乱と分裂を経験した。これはスコットランドの教会が不安定な状態にあったことの反映であった。教会と国家の関係についての見解の相違が抗争の主な原因であった。1855年に至るまでにニューサウスウェールズには4つの長老派の教会が作られた。それらはニューサウスウェールズ長老派教会、オーストラリア長老派教会、長老派教会連合、そして東オーストラリア長老派教会である。1865年にはこれらの教会はニューサウスウェールズ長老派教会として統合されたが、東オーストラリア長老派教会だけはこの連合に加わらなかった。
長老派教会は1822年にタスマニアに、1838年ヴィクトリアに、1839年南オーストラリアに、1849年クィーンズランドに、1879年西オーストラリアにそれぞれ設置された。19世紀中頃の長老派教会は、これらの地域でも分裂と結合を繰り返していた。
歴史的に、長老派には中流以上の職種の人々が多く含まれていた。牧場や農場の多い地域社会、すなわちハンター・ヴァリー、北部海岸地域、中西部丘陵地、後にはニューサウスウェールズの北部高原地域、ヴィクトリアのウェスタン・ディストリクトやギップスランドなどの地域に分布していた。
長老派教会は多くの大学や高等学校を創立した。ラングによって設立されたオーストラリアン・カレッジ Australian College (1831-54)は、オーストラリアにおける教義的な修養を目的として創設されたものである。大学内のカレッジとしてはシドニーのセント・アンドリューズ、メルボルンのオーモンドがある。全体で27の中等教育のカレッジが設立されたが、これらはイギリス本国の寮制の高校を範として創られたのである。シドニーのスコッツ・カレッジ、ノックス・グラマー、プレスビタリアン・レディーズ・カレッジ、ヴィクトリアのスコッチ・カレッジ、ジロング・カレッジ、ヘイリーベリー、エセンドン・グラマーなど、そしてアデレイド、パース、ロンセストンのスコッチ・カレッジなどがこれに含まれる。
1901年、全国的な連合であるオーストラリア長老派教会が設立され、オーストラリアにおける宗派をこえた統合を呼びかけた。1977年にはこの連合が連合教会the Uniting Churchを結成したが、1,437会衆のうちの521会衆は、オーストラリア長老派教会としてとどまった。
長老派教会の信者数の総人口に対する割合は、20世紀を通じて漸減している。1911年には人口の12.9%であったが1976年には6.6%となった。この原因の一端はおそらくオーストラリアにおけるエスニシティ構成の変化によるものである。多数派による教会連合の結成があった後、1981年の人口比では、4.4%の人々が自分を長老派教会員であるとしている。
安井倫子01