Port Arthur
ポート・アーサー
タスマニア南東部、ホバートの南東約99キロに位置する。
人口:168(1999)。
ホバートから南東に約99キロ、タスマニア南東部のタスマン半島にある入り江に建てられた懲罰居留地。植民地で再び罪を犯した囚人が送られた。1830年にジョージ・アーサー副総督によって建てられ、その名にちなんで名づけられた。アーサーはヴァンディーメンズランドの囚人収容施設を統合するため、1830年ここに囚人入植地を設立した。マクウォリー・ハーバーとマライア島の囚人収容施設はそのため閉鎖された。タスマン半島Tasman Peninsulaは1642年にアベル・タスマンによって発見され、調査が行われた。またジョージ・バスとマシュー・フリンダーズによっても1798年から1799年にかけて調査され、ボーダン調査隊のルイ・ドゥ・フレイシネイLois de Freycineによって1821年に地図に記された。
監獄は囚人労働によって建てられ、仕事場や監視施設、独房も設けられた。特徴的なのは、看守からは、はっきり全体が見渡せるけれども、囚人はお互いに隔てられるよう設計されたチャペルである。ポート・アーサーはその厳しい囚人の扱いで悪名高かった。特に、ポイント・ピュアPoint Puerに設けられた少年刑務所は評判が悪かった。この監獄の地理的利点のひとつは、ホバートから海路でわずかな距離だということであり、さらに、逃亡を防ぐという点でも好位置であった。兵士と警備犬が唯一の陸路イーグルホーク・ネック地峡Eaglehawk Neckを見張り、泳いで逃亡しようとしたものはおぼれ死んだ。ポート・アーサーは、1877年まで監獄として存続した。監督官の居所は1830年代に、衛兵所は1835年に、教会は1836年に建設されたが、尖塔は1875年に倒れ、教会はさらに火事によって1884年に損害を受けた。病院は1842年に新たに建てられたが、1895年と1897年のブッシュファイアーによって損害を受けた。オーストラリア最大の製粉所の1つが1844年に建設され囚人収容施設に転用された。
1877年に監獄が閉鎖になった後、監獄としての過去を切り離すために一時カナーヴォンCarnarvonと改名された。1970年代にタスマニア州政府によって史跡として再開発され、タスマニア有数の観光地となっている。しかし、廃墟のロマンティシズムと刑罰の残忍性を拭い去ろうとする政府のやり方に疑問の声を投げかける学者もいる。
1996年4月28日に、1人の男がポートアーサーと近くのホテルで銃を乱射し、35人の死者を出した事件はオーストラリア人に衝撃を与え、銃規制の議論が沸騰した。この事件はポート・アーサーの虐殺と呼ばれている。
山崎雅子・西川俊紀1001