Polding, John Bede
ポウルディング、ジョン・ビード
1794-1877
リヴァプール、イギリス生まれ。
オーストラリア初のカトリックの司教。
1794年、イギリスのリヴァプールに生まれる。8歳で両親が死亡し、ベネディクト会士の叔父に育てられる。1819年にベネディクト修道院の聖職者となり、1823年に修練長novice masterとなった。1834年に副修道院長となり、司祭に叙され、翌年にニューサウスウェールズへ赴任する。オーストラリアにおけるカトリック教会組織の立ち上げに尽力した人物である。
ポウルディング着任以前のオーストラリアは、モーリシャスを中心とする司教管区の一部にすぎず、多数のカトリック系アイルランド人への十分な宗教活動がなされていなかった。そのため1832年にベネディクト派のアラソーンUllathorneがニューサウスウェールズの司教総代理に、1834年にはポウルディングがオーストラリアの司教に任命され、翌年オーストラリアに到着した。ポウルディングはカトリック系アイルランド人囚人への布教の必要性を感じ、率先して彼らへの秘跡を行った。1841年までに、約7,000人の囚人がポウルディングによって秘跡を受けた。またポウルディングはアラソーンとともに、オーストラリアにおける教会組織作りを進め、キャンベルタウンなどの町に教会を建て、1836年までに13の小学校を設立した。教会組織の運営が煩雑になるにつれ、人材不足を認識したポウルディングは、聖職者を育成するためのベネディクト修道院の開設を考えるようになった。1840年からポウルディングはローマへ赴き、1942年4月5日に教皇からオーストラリアにおけるハイエラーキー設立の承認を得て、シドニーは大司教管区となった。ポウルディングは大司教となり、オーストラリア内の他の地域にも司教管区が設置された。
ポウルディングは長い在任期間を通じて、一聖職者として信者への日々の職務に従事し続けた。他方、ポウルディングは、秩序と禁欲主義に重きを置くベネディクト会的な修道院生活を植民地に導入しようと試み、オーストラリアで聖職者を養成しようとした。しかし、一般のアイルランド系カトリック信者にベネディクト的戒律が受け入れられなかったのみならず、修道士の中からも植民地におけるベネディクト主義の有用性に対する疑問が出された。また1850年代のゴールドラッシュなどに帰因する移民の増加のため、聖職者の増員が焦眉の急であったが、オーストラリアにおける聖職者養成は十分な成果を収めてはいなかった。結局、聖職者の補充はアイルランド出身の司祭によって満たされた。1854年に教皇がシドニーをベネディクト派の教区に限定することを拒否した際、ポウルディングは大司教の職を辞したが、受け入れられなかった。ポウルディングの方針に対する反発は、特に『フリーマンズ・ジャーナル』Freeman's Journal誌上を中心に、シドニーのカトリック信者から発せられ、1858年のシドニー大学のセント・ジョンズ・カレッジの指導権を巡る、一般信徒と聖職者と間の論争にまで発展した。ポウルディングは1870年の第1回ヴァティカン会議に出席しようとしたが、体調不良で引き返した。
19世紀の宗派間論争において、ポウルディングが激しい感情を見せることはほとんどなかった。彼自身の生活において、ポウルディングはベネディクト的理想を体現していた。1877年3月16日、ポウルディングはシドニーで息を引き取った。
藤井秀明0102