Phillip, Arthur
フィリップ、アーサー
1738-1814
ロンドン生まれ。
ニューサウスウェールズ初代総督(1788-1793)。
ニューサウスウェールズ初代総督。シドニーを中心に植民を行い、ニューサウスウェールズの植民地の基礎を築いた人物の1人である。
1738年フランクフルト出身の語学教師ジェイコブ・フィリップと、イギリス人の母エリザベスの間に生まれる。1751年には海兵の子弟のためのグリニッジ校に入学。ここを修了すると七年戦争に従軍、将校にまで昇進した。平和が近づいてきた1763年、フィリップは予備役に退き、マーガレットと結婚、その後はハンプシャーに農場を買いここに定着した。しかし、1774年ポルトガル海軍船長として海軍に復帰、その4年後にはイギリス海軍に戻った。
1786年、予備役からニューサウスウェールズの初代総督に任命されると、1787年第一船団を率いてオーストラリアへ向かった。まず上陸の段階でボタニー湾への上陸を中止し、シドニー入り江に上陸するという総督として最初の決断をした。そしてこの後は、シドニーを中心に内陸の調査が行われ定住が進められていくこととなる。1788年終わり頃、フィリップは農業用の土地を確保するためローズ・ヒル、現在のパラマッタに植民を開始したが、再三にわたるシドニーから内陸の探検の成果は上がらず、植民地は拡大の限界を示していた。また、入植に際してアボリジナルと友好関係を結ぶよう努力した。
フィリップは最初からオーストラリアが囚人の流刑地という枠を越えて発展していくと考えていたが、ロンドンへの要請にもかかわらず、彼が植民地にいる間に自由な移民が来ることはほとんどなかった。そのため植民地で総督を務めていた1788年から1792年の間に移送されてきた男3,546人、女766人の囚人が、アメリカ植民地のように一般の植民者に雇われていくことはあまりなく、囚人たちはその5年間政府の管理下にありつづけた。こうしてフィリップは、囚人の食料の供給、収容施設の建設、刑罰の執行等の仕事に専心することとなった。しかし、何より流刑地という性格上、住民は囚人か役人だけで、農業の知識や経験が不足していたことが、植民地の発展を妨げる最大の問題であったと言われている。ただし、これとは異なる見解が最近では主張されている。
後の歴史家たちは、フィリップが無償交付した土地の面積を正確には特定できていない。土地の無償交付の記録から判断すると、ニューサウスウェールズ本土に3,440エーカー、ノーフォーク島に49エーカーであったと考えられる。これは後の総督たちよりもかなり低い数字である。
1792年、病気の治療を理由に帰国した時には、植民地の人口は5,000人以上になっていた。帰国に際しフィリップは、自発的意思に基づいてベネロングともう1人のアボリジナルを連れて戻った。フィリップはニューサウスウェールズの総督に復帰する意志を持っていたが、医師の忠告を受け入れ、1793年総督を辞任した。1796年に病気から回復すると、再び現役活動に戻り1799年海軍少将に昇進、1805年に引退し、余生をイングランド南西部のバースで過ごした。1814年死亡する直前に海軍大将に昇進している。
新村祐規00