Perth
パース
西オーストラリア南西部、スワン川に面する州都。
人口:1,096,829(1996)、994,472(1986)、809,035(1981)、272,528(1947)、31,300(1911)、8,447(1891)、1,148(1848)。
現在のパースの前身は、1829年にジェームズ・スターリングによって建設されたスワン・リヴァー植民地である。スターリングは自らの探検の報告において、スワン川地域への植民を提唱していたが、本国政府は提案に難色を示した。しかし、彼は本国帰還後も新植民地建設に関して熱心な活動を続け、1828年にようやく植民計画が承認されることとなった。その翌年、パーメリア号に乗ったスターリングと入植者がスワン川に到着し、同年8月12日に植民地の成立が宣言された。スワン・リヴァー植民地はオーストラリアで3番目の植民地であり、初めての自由移民による入植地であった。パースは植民地の首府として、植民地大臣ジョージ・マリーの生誕地にちなんで名づけられた。1830年に初代公式牧師としてJ.B.ウィトヌームWittenoomが赴任し、最初の植民地学校を設立した。1832年には、西オーストラリア議会が開設された。数十年にわたって、スワン川は主要な交通路であり続けた。入植の初期には、ニュンガーのアボリジナルとの衝突が頻発した。彼らの移動がパースによって遮られ、猟場が荒らされたためである。1833年にアボリジナルの指導者たちが殺害され、その翌年には、ジョージ・シェントンが設立したサウス・パースの製粉所が襲撃を受けた。
1832年時点でのパースの人口はわずか360人であり、その発展はフリーマントルよりも緩やかであった。1830年代には、野菜栽培が行われるようになった。1830年代から40年代にかけて、羊毛の生産が盛んになった。1838年までに、この地域では8つの製粉工場が設立された。1840年代に深刻な労働力不足が生じたが、多くのサーヴァントは東部の植民地に移り住む経済力を備えていたので、やむなく西オーストラリアへの流刑囚の移送が行われることになった。1850年に最初の囚人船が到着し、流刑は1868年まで継続した。イライザ山Mt. Elizaの麓に流刑囚の収容施設が建設された。1854年、野菜栽培のためにキングスフォド湖が干拓された。1856年にはシティとなり、1858年に市議会が設立された。シティは1864年に複数の区に分割された。
1870年代には、野菜栽培に加え、住宅地の発展のためにも、タウンの周辺でさらなる干拓が行われた。また、1879年に最初の劇場であるセント・ジョージ劇場が建設された。1890年代にクールガーディーやカルグァリーでゴールドラッシュが起こるまでは、町の成長はゆっくりとしたものであった。1881年の時点でさえ、パースには1,083軒の家しかなかった。1880年代に鉄道の建設が始まり、1881年にフリーマントルとギルフォドを結ぶ路線が開通した。ゴールドラッシュにともない、市長を務め、議員でもあった金鉱所有者のW.G.ブルックマン、アルフレッド・モーガンズといった資産家によってパースへの投資が行われた。クローリー・パークCrawley Park、ダルキースDalkeith、ネドランズNedlands、ペパーミント・グロウブPeppermint Groveは、この時代に発展した地域である。それらに加え、1897年から1901年にかけては、クレアモントClaremont、リーダーヴィルLeaderville、ノース・パース、スービアコウSubiaco、ヴィクトリア・パークが発展した。1896年、ハリー・ボーンによってピープルズ・ストアが設立された。1897年にシティ・マーケットが開業した。1899年には、第1回の労働組合会議が開かれた。
しかし、1901年に入って、タウンの成長率は減少へと転じた。この年から1945年までタウンの書記を務めたW.E.ボールドBoldは、1906年から1912年に起こった「大パース運動」に大きな役割を果たした。この運動によって、パースとノース・パース、リーダーヴィル、ヴィクトリア・パークは合併した。1904年に開業した国王劇場は、オーストラリア初の鉄筋コンクリートで造られた建物である。この年には、州議事堂も建設され、1964年に増築されている。1905年から1910年にかけて、西オーストラリアで最初の公立高校であるパース・モダン・スクールが建設された。1913年には、西オーストラリア州立大学が創立された。フォレスト・プレイスと郵便局が1923年、ロンドン・コートが1930年代に建設された。1920年代には工場雇用が増加し、建築ラッシュが起こった。1928年には、パースの都市計画法が西オーストラリア議会を通過し、この法律はオーストラリアで最初の都市計画法となった。世界恐慌による不況期には、失業者のために救済事業が行われた。パースでも失業は深刻な問題であり、1933年まで労働者の4人に1人が失業している状態であった。ちなみに、世界恐慌が始まった1929年は、パース=アデレイド間の航空便の運航が始まった年でもある。
両世界大戦後、パースでは道路などの整備が進み、タウンはさらなる発展を遂げた。毎年行われているフェスティバルは、1953年から始まった。1955年、フリーマントルを含む都心部に関する都市開発案が策定された。また同年には、ギルフォド国際空港が開港した。1962年には、パースが開催地となって、英連邦競技大会が開催された。バセンディーンBassendean、ヒルトン・パークHilton Park、イナルーInnaloo、オズボーン・パークOsborne Park、ウェルシュプールWelshpoolといった新工業地域が1950年代に発展、モスマン・パークやノース・フリーマントルでは自動車工業が発展したが、1970年代に工場は閉鎖された。1960年代の後期から70年代の前期にかけて、商業・住宅地の不動産市場が活況を呈した。パース・コンサートホールと娯楽センターが1970年代の初めに建設された。また、1970年に第2次都市開発案が策定された。
津田博司1001