Parramatta
パラマッタ
ニューサウスウェールズ中東部、シドニーのシティの西方に位置する。
人口:130,783(1986)、20,816(1947)、12,520(1911)、4,128(1858)、5,389(1841)、3,600(1836)。
白人入植以前には、この地域はダルグDharugのアボリジナルの居住地であった。おそらくそのクランの1つであったBarramatugalが地名の由来であり、「ウサギが繁殖する場所」を意味するとされる。初期にはローズ・ヒル(ロウズ・ヒル)Rose Hillと呼ばれたが、1791年に改名された。シドニーの入植地は農耕に適さなかったので、農耕地として開発された、初期植民地の穀倉である。1789年オーストラリアで初めての小麦が収穫された。同年、ジェームズ・ルースJames Ruseに対し、オーストラリアで最初の土地交付が行われた。またこのときシドニーとの間にフェリーが開通した。1790年町のレイアウトが行われたが、ここはオーストラリア大陸で2番目に開かれた入植地であり、シドニーが拡大し、ホークスバリーが穀倉地帯として成長する1792年までは、最大の入植地であった。1790年に病院が建設され、翌年白人オーストラリア最古の墓地、セント・ジョンズ墓地が建設された。
1793年、マッカーサー家のエリザベス・ファーム・ハウスが建築されたが、これは現存するオーストラリア最古の家である。1794年シドニーとの道路が開通、1811年には料金所が設けられた。1799年旧総督官邸、現存するオーストラリア最古の公共建築が造られた。これは1815年から1826年に拡張され、1847年まで総督の居所として用いられた。この建物は1967年、ナショナル・トラストによって購入された。またその敷地は公園になっている。1796年ニューサウスウェールズで最初に教会が奉献されたのも、パラマッタであり、建物は1803年に完成、1850年代にセント・ジョンズ教会に立て替えられた。1803年、オーストラリアで最初のカトリック礼拝が行われた。1810年には最初の競馬が開催されたと言われている。ヨーロッパ人の入植に対して、先住民たちは抵抗を続けた。とりわけペマルワイPemulwuyはよく知られた戦士である。彼は負傷し、1度は入植者に捕らえられたが、脱出に成功し、射殺される1802年まで入植者たちを攻撃した。彼の首は切り落とされ、イギリスへ送られた。1805年に一応の和解にいたるまで、入植者たちはダルグの人々を無差別に殺害した。また、このころ流行した天然痘は人口を激減させた。マクウォリーの時代になると、先住民に対する文明化政策が進められるようになり、食物や毛布が配布されるようになった。
1811年、総督マクウォリーによって、町はレイアウトされ、通りの名前がつけられた。1819年には「女性工場」が設けられ、毛織物の生産が行われた。1820年ころジョン・ハリスはルースがもともと交付された土地に、エクスペリメント・ファーム・コテジを建てた。1831年からシドニーとの間に定期連絡船が走るようになり、1928年まで続いた。ニューサウスウェールズ初の鉄道が、1855年にシドニーからパラマッタ・ジャンクション(グランヴィル)まで開通し、1860年にパラマッタまで延長された。1861年自治体となり、1938年にシティとなった。
大シドニーの地理的なほぼ中心に位置し、交通の要衝である。工業や商業施設が集積し、公共施設も多く、便利な場所ではあるが、雑然としており、他の郊外の町に比べて美しい町ではない。多くのハイウェイがこの付近で交錯するが、慣れない人間にとっては紛らわしい場所である。多くの古建築物が公開されており、植民地時代初期の歴史を知るには重要な場所である。
藤川隆男0403