Parkes, Henry
パークス、ヘンリー
1815-1896
ウォリックシア、イングランド生まれ。
政治家、ニューサウスウェールズ植民地首相(1872-75、77、78-83、87-89、89-91)。
19世紀後半のニューサウスウェールズにおける最も著名な政治家の1人。首相を5期16年務めた。自由主義・自由貿易を信奉し、特に教育改革に力を注いだ。晩年には連邦結成運動のイニシアティヴをとり、「連邦の父」と称されている。
10歳の頃バーミンガムに移り、象牙加工職人の徒弟となるかたわら、職工協会で学び、チャーティスト運動に関わる。独立するが成功せず、1839年に妻とともに補助移民としてニューサウスウェールズに向かう。やがてシドニーに落ち着き商売を始めるが、生活は苦しく、次第に活動の重心をジャーナリズム・政治に移していく。数年間地元の新聞に寄稿した後、1848年の立法評議会議員選挙でロバート・ロウを支援する委員会を組織し、選挙権拡大・土地改革を求める急進主義運動に身を投じる。政治運動家としての手腕は、1849年の反流刑連盟結成においても発揮された。1850年の立法評議会議員選挙では、普通選挙権・共和政を唱えるオーストラリア連盟を結成したジョン・ダンモア・ラング師を支援するが、共和主義への傾倒は一時的なもので、同年末、新聞『エンパイア』を創刊し(58年まで発行)、ウィリアム・チャールズ・ウェントワースら保守派の支配体制に対抗する自由主義陣営に加わった。1853年にはウェントワースらが起草した自治法案に反対し、翌年の立法評議会議員選挙において保守派候補者を破り初当選した。
自治権が植民地に付与された1856年の下院選挙で、シドニーの全議席を押さえたリベラル4人組の1人となり、以後40年に及ぶ余生の大半は議員として活動する。保守派に代わって台頭してきた自由主義議員による派閥政治の下、当初チャールズ・クーパーやジョン・ロバートソンに協力するが、次第に自派を形成していく。1861年政府の依頼で移住奨励講演のため渡英(63年帰国)、リチャード・コブデンらと知り合う。1866年ジェームズ・マーティンと結託し、クーパー内閣を打倒、マーティン新内閣の植民地長官に任命された。また、同年公立学校法を制定した。
1872年の総選挙後、旧クーパー=ロバートソン派とカトリック勢力を取り込み、初めて首相となる。関税引き下げを行い、ヴィクトリアと自由貿易協定を交渉する。1877年にロバートソン内閣を倒し組閣するが、半年で新政権は崩壊する。1878年にはロバートソン派との連立で第3次内閣を組織し、派閥政治のもとで最も安定した政治をもたらした。同内閣の下、公教育法、公有地売却法、選挙区改正法、酒類販売規制法、中国人移民制限法等が制定された。1883年の内閣総辞職後しばらく政権から遠ざかるが、折からの不況で財政危機が起こると、自由貿易を掲げて政府の関税政策を攻撃し、1887年には4たび首相となる。この頃から主義・政策を巡って展開する政党政治の萌芽が見られ、従来の派閥政治は後退していく。1889年には自由貿易政党の党首として5度目の組閣を行った。しかし、1891年半ばからの最後の数ヵ月間には、労働党の支持を頼むようになった。
連邦結成運動との関わりは、1889年のテンタフィールド演説に始まる。この演説をきっかけに運動は高まり、1890年と91年の2度にわたり連邦憲法制定会議(91年の会議では議長を務める)が開かれた。変化する政治環境のなか、自らの影響力を維持するために連邦主義にコミットしたとも言われている。1896年に死去。「連邦の父」にふさわしく、国会のあるキャンベラの中核部はパークスと呼ばれている。
宮崎章00