オーストラリア辞典
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Papua New Guinea

パプア・ニューギニア



 ニューギニアに最初に訪れたヨーロッパ人は、16世紀のポルトガル人である。しかし、ヨーロッパ人の影響力がこの地域に定着し始めたのは、19世紀になってからであった。

 1828年、オランダはオランダ領東インドに隣接した東経141度から西の地域(西イリアン)を領土とした。残りの部分は1880年代、ドイツとイギリスによって分割され、北部地域をドイツが、島の南東部をイギリスが領有した。オーストラリアは金と貿易の利権を目論んでいた。クィーンズランドの植民地政府は1883年に、島の東部をイギリスの名のもとに併合することで、この地域への本国の介入を促し、イギリス以外のヨーロッパの影響力を制限しようとした。イギリス本国は、当初はクィーンズランドのこの動きを認めなかったが、1884年になって、ニューギニア東部に保護領を設置した。1887年から、3つの植民地、クィーンズランド、ニューサウスウェールズ、ヴィクトリアが英国政府の支配に対し財政支出を行った。1902年に、英本国は領土を新しくできた連邦に譲渡することを決めたが、オーストラリアがこれを引き受けたのは1906年であった。これを機会に、その地域の名称がパプアと改められた。パプアとはマレー語で「ちぢれた毛」を意味する。以前には、この地はイギリス領ニューギニアと呼ばれていた。

 第1次世界大戦まで、シドニー生まれで軍隊経験のある法律家のヒューバート・マリーHubert Murray副総督がパプアの政務を担当した。彼は、白人勢力の秩序ある浸透を図るとともに、原住民の生活の向上も目指す政策をとった。

 1914年、第1次世界大戦の勃発時、オーストラリア軍はドイツ領ニューギニアを占領した。1919年のパリ講和会議で、オーストラリア政府は、ヒューズ首相が前ドイツ領であった地域の併合を主張したが失敗し、国際連盟によりCクラスの委任統治の権限を与えられた。第2次世界大戦が終わるまで、ニューギニアとパプアの2つの地域は別々に統治されていた。戦後、オーストラリア政府は、国際連合に参加、国連はこの地域に独立を与えるよう要請した。1980年代に至るまで、この地域はオーストラリアが最も大きな海外援助を行う地域であった。

 戦後の反植民地運動はこの地域でも盛んとなり、オーストラリアのこの地域からの撤退を早めた。独立の準備として、1964年には住民議会が設置された。パプア、ニューギニア両地域で分離独立を求める運動が存在していたが、その最も強力な独立派は北部にあり、貧しいパプアとの連合は得策ではないと考えていた。しかしながら、両地域は統一国家を形成、パプア・ニューギニアとなり、1975年に正式にオーストラリアからの独立を達成した。

 安井倫子00