Palmer, Edward Vivian
パーマ、エドワード・ヴィヴィアン
1885-1959
バンダバーグ、クィーンズランド出身。
文筆家、批評家。
1885年8月28日、クィーンズランドのバンダバーグに生まれる。父親は学校の教師であった。イプスウィッチ・グラマースクールで教育を受ける。16歳で学校を出た後、ブリスベンで秘書や事務員として働いた。『ブレティン』の影響を受け、雑誌に執筆を始め、1905年にはパーマの書いた「オーストラリアの国民芸術」が出版された。この年にイギリスに渡り、1907年にロシアと日本を経由して帰国した。その後1年間ブリスベンのグラマースクールで教鞭をとった。1909年にはクィーンズランドの牧場で家庭教師と簿記係の職に就いた。1910年から15年までの間、一時期を除き、イギリスやフランスで過ごした。この間文筆活動で生計を立てることが可能になった。1914年3月、ロンドンにおいて、ジャネット・ガートルード・ヒギンズJanet Gertrude Higginsと結婚した。フランスでのハネムーンの最中に第1次世界大戦が勃発し、1915年オーストラリアに帰国した。パーマは徴兵制に反対し、1917年のストライキを支持したが、同時にオーストラリア・ナショナリストでもあった。第1次世界大戦中の1918年、オーストラリア帝国軍に入隊し、フランスに渡ったが、それはすでに停戦した後であった。1919年11月にメルボルンに戻り除隊になった。1922年にはメルボルンで演劇集団the Pioneer Playersの旗揚げに参加した。文筆業で得る収入は乏しく、1925年から29年にはメルボルンを離れ、クィーンズランドで質素な生活を送っていた。1929年と30年に『ブレティン』の小説コンクールに入賞して合わせて400ポンドを獲得し、状況は大きく改善された。数多くの詩や散文、戯曲を執筆したが、代表的な小説としてはGolconda(1948)、Seedtime(1957)、The Big Fellow(1959)からなる3部作がある。
パーマは妻とともに、オーストラリアの文学の育成に力を注いだ。1942年から連邦文学基金の諮問委員会のメンバーとなり、1947年から53年には、議長を務めた。1959年メルボルンで死亡した。妻のジャネットはH.B.ヒギンズの姪であり、その伝記を出版し、Fourteen Yearsと呼ばれる日記を著した。彼女は夫とともにオーストラリアの国民文学の発展に貢献した。
渡部滋之1101