Overland Telegraph
大陸縦断電信線、オーヴァーランド・テレグラフ
1860年代の終わり、南オーストラリア郵政長官であったチャールズ・トッドCharles Toddがアデレイドとダーウィン間に電信線を設置することを強く提唱し、1872年に完成した。南オーストラリアが単独で48万ポンドを出資し、電信線が南オーストラリアのポート・アガスタから、当時南オーストラリアが管理していたノーザンテリトリーのポート・ダーウィンまで、およそ2,900キロ間に敷設された。同地帯は1859年から1862年にかけて、J.M.スチュアートによって開拓されたばかりの経路であった。
1870年、ジョン・ロスJohn Rossはスチュアートの遠征の経路をもとにその行程を測量した。第1の電信機は1870年9月に立てられ、71年1月にはキャサリンKatherineに至った。同じ年に、マカンバ川Macumbaからテナント・クリークの区間まで完成した。電信線設置が最も困難を極めたのは、テナント・クリークとダーウィン間であった。
1871年、電信線はジャワ島と連結し、同年6月23日にデイリー・ウォーターとテナント・クリーク間の未完成部分は馬による連絡手段を用いて最初の電報が送られた。1872年8月に電信線はフルーズ・ポンズFrew's Ponds(ニューカッスル・ウォーターより北に50キロ)で連結し、10月に初の電信だけの通信が行われた。1899年には2本目の電信線が設置され、1941年に改良が加えられた。大陸縦断電信線は約90年間に渡り、オーストラリアの国際通信システムにおいて重要な役割を演じたが、1960年代に国際同軸海底ケーブルシステムに取って代わられた。テナント・クリークやアリス・スプリングズでは電信基地へのツアーが利用できる。
藤井秀明・中島花子0502