オーストラリア辞典
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Orange Order, Orange Lodge

オレンジ・オーダー、オレンジ・ロッジ



 オレンジ党は1795年アイルランドのプロテスタントが組織した秘密結社である。その名はプロテスタントのオレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)にちなんでいる。1690年ウィリアム3世はボイン河畔の戦いで、復位を狙うジェームズ2世とそれを支持するカトリック勢力を破った。これを記念して7月12日のオレンジ党勝利記念日にはパレードが行われるが、その際にオレンジ党員とカトリック信者との間に争いが起こることもある。

 オーストラリアにおけるオレンジ党員による集会は、ニューサウスウェールズで1820年代から開かれた。その構成員は第17、50、63連隊の軍人が中心で、イギリスの本部が発給した免許状を所持していた。

 1829年、軍の指揮官は軍内部の全ての支部の免許状を本部へ返すよう命じたが、多くのオレンジ党員はその命令に背き、免許状を保持し続けた。オレンジ党員の集会は、ゴールドラッシュに沸くニューサウスウェールズやヴィクトリアの内陸部にまで広がっていったが、軍人への免許状の下では民間人の参加は認められなかった。

 1835年4月9日、第50クイーンズオウン連隊の兵士アンドルー・アレクサンダーがシドニーに到着した。彼の妻は軍服の上衣に第50クイーンズオウン連隊への免許状第1780号を縫い込んでいた。免許状第1780号により設立された支部は、1845年オーストラリアで初めて市民の参加を認め、オーストラリア支部第1号となった。同じく1845年には、シドニーにオーストラリア初の本部が設立された。初の首領にはロバート・バー教授が、副首領にはアンドルー・アレクサンダーが就任した。アレクサンダーは翌年には首領となった。その後1883年にはオーストラリアの各オレンジ党本部による評議会が、儀礼を同一のものとすることを目的として設立された。

 今日、オレンジ党はオーストラリアの全ての州に本部を置いており、プロテスタント信仰の擁護、信教や市民の自由、政教分離、人類の福祉等を目標に掲げている。また、福祉事業を行ったり、機関紙The Sentinelを発行したりしている。

 0704塩崎智康