Northern coalfields' lockout
北部炭鉱のロックアウト
石炭産業が原因となった国家経済の山積する問題に対処するため、ニューサウスウェールズ首相T.R.ベヴィンBavinは、炭鉱夫の賃金を12.5%削減することを含む一連の対策を提案した。炭鉱所有者のグループである北部炭田協会は、ハンター川流域の国内最大の採掘地域で、この提案を実行する意志を表明した。
ロックアウトは1929年3月1日に始まった。安全と整備のための労働だけが行われ続けた。この事件には北部の炭田の労働者の半数以上となる、およそ1万人が参加した。ロックアウトは1929年の間続き、その終わりごろに、より闘争的な行動に炭鉱夫と支持者たちをかりたてる事件が起こった。
国内の石炭供給が中断されていることを口実に、ニューサウスウェールズ政府は採掘を再開する計画を公表した。計画を始めることに決めた炭鉱は、メイトランドの北にあるロスバリーRothburyにあった。1929年12月16日に起こった警察とピケ隊の衝突は、ノーマン・ブラウンという28歳の炭鉱夫が射殺されるという結果に終わった。ブラウンの死に続いて、人々が決起大会へ殺到し、内戦が起こりかねないという懸念もあった。これらのことは、組合の指導者が11月に仕事の再開に関する炭鉱所有者の条件を受け入れるかもしれないという報告によってあおられた。疲労と欠乏が炭鉱夫による報復の脅迫にとって代わり、1930年半ばまでに、炭鉱は再開した。
長期間のロックアウトは連邦のブルース=ペイジ連立政府にはねかえり、労使関係への対応の失敗は、1929年の総選挙における敗北の一原因となった。選挙期間中、労働党の各派は、もし選挙で勝利すれば炭鉱をロックアウト以前の状態にして再開することを約束した。しかし、政権につくと、労働党の首相スカリンは、ロックアウトは州の問題であり、連邦が介入できる問題ではないという理由で、この問題の解決にあたることはなかった。
山口典子00