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新聞
植民地最初の新聞は、1803年創刊の『シドニー・ガゼット・アンド・ニューサウスウェールズ・アドヴァタイザー』である。同紙を発刊したジョージ・ハウGeorge Howeは、1799年に囚人として植民地へ送られてきた元印刷業者であった。総督の特許のもと週刊紙として発刊され、通常の記事の他、官報や公示を掲載できる取り決めを植民地当局と結んでいた。1820年代に他の新聞、特に植民地初の独立系新聞『オーストラリアン』(1824年創刊)や『モニター』(1826年創刊)が出現し始めると、『シドニー・ガゼット』は苦境に立たされた。『シドニー・ガゼット』は1827年の一時期に日刊紙となり、1842年に廃刊された。
政府と同様の取り決めを結んだ新聞は、タスマニアでも発行された。タスマニアである程度の期間続いた最初の新聞は『ホバート・タウン・ガゼット』で、1816年に元囚人のアンドリュー・ベントAndrew Bentによって始められた。副総督ジョージ・アーサーが植民地に到着して間もない1824年頃、ベントはアーサーと衝突し、同紙はジョージ・ハウ(上記の息子)の手に渡った。翌1825年、ベントは独立系『コロニアル・タイムズ』を創刊した。現存するタスマニア最大の新聞は『マーキュリー』で、1850年代に創刊され、1860年代に日刊紙となった。
『シドニー・ヘラルド』は1831年に創刊されたが、この時期までには当局の許可を得ない自由刊行の原則が確立していた。同紙はまもなく植民地の主要紙となったが、その理由としては他紙と比べて安価な価格があげられる。1841年にジョン・フェアファクスJohn Fairfaxとチャールズ・ケンプCharles Kempに買収され、日刊紙『シドニー・モーニング・ヘラルド』となる。1853年にフェアファクス家が同紙の権利をすべて獲得し、今なおその大部分を保持している。
メルボルンの『エイジ』は1854年に創刊された。1856年にスコットランド系のデイヴィドDavid、エベニーザEbenezerのサイムSyme兄弟の手に渡った。『エイジ』は、特に1859年以降のデイヴィドによる編集下、リベラル派や、一時期は急進主義に対する支援で名を馳せた。保護貿易を支持し、スクオッターによる立法評議会の支配に反対、選挙権資格の資産制限廃止を主張し、産業立法を支持した。同紙の記者には、著名な植民地政治家で、後の連邦政府首相アルフレッド・ディーキンなどがいた。『エイジ』は、1846年創刊で1956年に廃刊となった『アーガス』に続いて、1850年代に植民地の最大の新聞となった。ヴィクトリア初の日刊紙は、初期入植者ジョン・フォークナーJohn Fawknerが1838年に創刊した『ポート・フィリップ・ガゼット』で、1852年に『アーガス』と合併した。
その他の主要都市の日刊紙で、植民地初期に創刊され1980年代においてまだ発刊されているものは、アデレイドの『アドヴァタイザー』、ブリスベンの『クリア』(1933年に『クリア・メイル』と改名)、1879年に日刊紙として始まった『ウェスト・オーストラリアン』、1879年創刊のシドニーの『デイリー・テレグラフ』などがある。オーストラリア初の全国紙は、1964年創刊の『オーストラリアン』(上記同名紙とは別紙)である。
藤井秀明01