New South Wales
ニューサウスウェールズ
オーストラリア南東部に位置する州。州都はシドニー。
1788年、オーストラリアで最初の流刑植民地として成立。初代総督はアーサー・フィリップ。地名は、1770年にジェームズ・クックがオーストラリア東岸を指して名づけた名称に由来する。ただし、クックがこの名を選んだ理由は定かではない。
当初流刑植民地として出発したことは、ニューサウスウェールズの大きな特徴をなしている。オーストラリアの他の流刑植民地と異なり、シドニーでは元囚人の入植者も早くから収入を得て、定職につき、市民としての責任を負うようになった。また、その子孫は高い社会的地位を獲得した。19世紀に自由移民として移住したヴィクトリアや南オーストラリアの入植者にとっては、流刑植民地という起源は好ましいものではなかったが、シドニーとシドニー・ハーバーは、次第にオーストラリア誕生の地としての地位を確立し、オーストラリア人は、流刑という刑罰の野蛮さとオーストラリアの美しい自然との対比を強調するようになった。また、初期の流刑囚についての歴史は、オーストラリア人にとって重大な関心事となっている。
オーストラリアの歴史において、ニューサウスウェールズは中心的な役割を果たしてきたと評価されている。第2次世界大戦後、ニューサウスウェールズを除く各州で州史の編纂が進められたにも関わらず、ニューサウスウェールズの歴史だけは、州史ではなくオーストラリア史の文脈で語られてきたことからも、このことが見て取れる。その歴史、資源、人口、首都シドニーの繁栄を考えれば、ニューサウスウェールズがオーストラリア史の中心を占めるのは確かであり、特に1851年以前のオーストラリア史は、しばしばニューサウスウェールズとその他の歴史として描かれがちである。これに対して、オーストラリア史を連邦規模で理解し、各州、各地域間の相互関係を重視すべきであるという主張もなされている。それでも、ニューサウスウェールズを単なる州の1つに過ぎないと見なすことは、ニューサウスウェールズがオーストラリアの歴史において果たした役割を見落とすことになるだろう。
実際、ニューサウスウェールズは非常に傑出した存在であった。その植民地成立時点の領域は、オーストラリア大陸の3分の2を覆った。他の4つの植民地は、ニューサウスウェールズから分離して成立したものである。1825年にタスマニア(当時はヴァンディーメンズランド植民地)、1836年に南オーストラリア、1851年にヴィクトリア、1859年にクィーンズランドが分離。また、現在連邦直轄地となっているノーザンテリトリーは、1863年にニューサウスウェールズから南オーストラリアの管理下へと移った。今日の各州の州都であるホバート、ブリスベン、メルボルンの3都市も、当初はシドニーからの統治を受けていた。ニューサウスウェールズが現在の姿となった1863年には、ゴールドラッシュに湧くヴィクトリアが急成長し、メルボルンの人口がシドニーを抜いたものの、鉄鉱石や石炭といった豊富な地下資源を有するニューサウスウェールズは成長を続け、1890年代の前半には最も人口の多い植民地に再びなった。その10年後には、首府シドニーも再びオーストラリア最大の都市となり、その地位は現在まで続いている。
1890年代に入ると、ヴィクトリアを始めとする各植民地が保護関税政策を採用したのとは対照的に、ニューサウスウェールズは自由貿易政策を推進した。他の植民地に比べて経済的に優位に立っていたニューサウスウェールズは、連邦化に対して消極的であった。連邦化によって保護関税政策が国策となり、シドニーの貿易港としての利益が脅かされることを恐れたためである。ニューサウスウェールズは連邦化の交換条件として、連邦首都をシドニーに置くことを要求した。これに対し他の植民地が強く反発したため、最終的には、ニューサウスウェールズ内に首都特別区を設けることになり、1911年に新たな連邦首都としてACTが分離され、そこにキャンベラが建設されることになった。その一方で、シドニーは、太平洋に面し、交通の要所であるというその立地条件を生かして、新たな産業や投資、海外からの移民を振興することで発展を続けた。その結果、シドニーは1960年代にはメルボルンを超える商業・金融の中心都市となった。保護関税政策が撤廃された1980年代からは、シドニーは文化や情報の中心地としても繁栄している。
入植当初のヨーロッパ人の人口は約1,000人であったが、1792年には3,000人に達した。ナポレオン戦争終結後、大規模な流刑囚輸送の始まりとグレイト・ディヴァイディング・レインジを越える入植地の拡大により、植民地の発展の基礎は固まった。1830年代には羊毛が主要な輸出品となり、産業の中核を占めるようになった。しかし、羊毛生産への特化のため、植民地が穀物を自給できるようになったのは19世紀の末であった。羊毛生産の拡大は入植者とアボリジナルの衝突をもたらした。アボリジナルはマイオール・クリークなど各地で殺害され、その文化は破壊された。また、ヨーロッパ人のもたらした伝染病はその人口を激減させた。
政治の面では、1823年に任命制の立法評議会が設置され、42年にはその3分の2が選挙で選ばれるようになった。また1840年には流刑が停止され、補助移民制度が拡大された。1855年には自治植民地となり、52年には公有地の処分権を獲得した。1858年には男子普通選挙が実現し、民主的な政治が成立した。
ゴールドラッシュにより、ヴィクトリアほどではなかったが人口も増大し、1861年には人口35万人に達し、羊の数は600万頭を数えた。これに続く30年間は持続的経済成長の時代であり、鉄道や羊毛生産、公共事業などは順調に拡大した。1892年までに人口は120万近くに達し、羊の数は5,000万頭を超えた。この間自立したアボリジナルの居住地域は事実上消滅し、彼らは白人入植者社会の周辺部で生活するようになった。
1890年代前半の恐慌とこれに続く干ばつは経済に大打撃を与え、羊の頭数は半減し、移民や資本の流入はストップした。この恐慌を受けて、労働党の組織化、連邦の成立など多くの改革運動が進んだ。1910年には労働党政権が誕生する。保護関税と第1次世界大戦はニューサウスウェールズの工業化を促進し、シドニーの南北に位置するポート・ケンブラとニューカッスルは重工業の中心地として発達した。この間シドニーへの人口集中も進み、シドニーの人口の州人口に対する割合は1901年の36%から、54年には50%以上に拡大した。
1916年の徴兵制問題では州の労働党も分裂し、労働党首相W.A.ホウルマンHolmanは辞任し、国民党に加わった。J.T.ラングは労働党の党首として首相になったが、公債の利払いを停止するに至り、総督に解任された。その後、非労働党政権が1941年まで続いた。
第2次世界大戦後、ニューカッスルからウロンゴングに至る地域は単一の工業地域となり、東南ヨーロッパからの多くの移民労働者を受け入れた。1985年に人口は550万人となり、その3分の2はシドニーとその周辺に住んでいた。第2次世界大戦中に所得税の課税権が連邦に移ってからは、州政府の独自の大規模な改革は実施できないようになっている。政治的に見ればニューサウスウェールズはオーストラリアの一地方となりつつある。
津田博司1101