Neilson, John Shaw
ニールソン、ジョン・ショー
1872-1942
ペノウラ、南オーストラリア生まれ。
詩人。
1872年2月22日、スコットランド生まれの父ジョンと、その妻マーガレットとの間に長男として生まれた。ここで学校に通ったのは2年にも満たず、父のために子供の頃から農場で働いた。1881年に彼の家族はヴィクトリア植民地への集団入植に参加した。しかし、前借り金を差し引いた農業収入はわずかで、8年もの間、非常に苦しい生活を強いられた。1889年6月に一家はニルの西数マイルのところにあるダウ・ウェル Dow Well に移った。そこで彼は家族の仕事を手伝いながらではあったが、自然の中を歩き回り、鋭い洞察力で自然を観察した。1885年から86年までの間、数ヵ月間彼は学校に通っていた。
ニールソンと彼の父は頑固な連邦主義者で地元の文学サークルに加わっており、1893年には2人そろって、オーストラリア出生者協会主催の競作で受賞している。ニールソンの父は30歳の頃に詩作を始め、1897年には別の賞を受賞している。彼がもっとも人気を集めたのは"Waiting for Rain"という歌であった。彼は明らかに「息子のような並外れた詩的才能」を持ってはいなかったが、彼の受けたわずかな教育と生涯にわたる苦しい生活にも関わらず、文人としてある程度の成功を収めた。
『ニル・メイル』 Nhill Mail の編集者フランク・シャン Frank Shann は、ニールソンの詩を何年か刊行したが、ほとんどは、平凡なものだった。一家は相変わらず貧しいまま1893年の中頃にニルへ移ったが、1895年の5月にはティレル湖近くにある、ユーカリの低木の茂みに覆われた地域の開拓のため再び移り住んだ。現地はすぐには耕作できず、干ばつやブッシュファイアーと闘いながら一家は生き延びた。そのため、詩作に費やす時間はほとんどなかった。1896年12月の『ブレティン』誌にニールソンの詩が1つ見られるのみで、1901年の終わりまで、それ以外の作品は全く出版されなかった。
その後も家族は転々とし、1902年には家計は好転したが、1903年、1907年と身内に不幸が続いた。ニールソン自身も非常に体調が不安定で、1901年から06年までの間、『ブレティン』に数度寄稿した以外は4年近くもの間、ほとんど作品を出さなかった。このころからニールソンは視力を失い始め、以後彼は読み書きに介助が必要となった。
ニールソンはよく、彼の緑色好みから「緑の詩人」と呼ばれる。また、ニールソンの人生の大半が貧しい生活の中で石を切り出し、茂みを切り開いて道を造ることに費やされたことから、「道路工夫」とも呼ばれる。
ニールソンの作品が後世に残ったのはA.G.スティーヴンズの精神的、物質的な助けがあったからである。スティーヴンズはほとんど無償で、ニールソンの手助けを行った。1911年にスティーヴンズの雑誌『ブックフェロウ』Bookfellow が復活すると、ニールソンは定期的な寄稿者となった。スティーブンズはニールソンの作品を集め始め、そうして集められた詩は1919年に Heat of Spring にまとめられた。
その後も1923年、27年、34年、38年と次々と詩集が出版され、38年に Beauty Imposes が刊行された時にはR.D.フィッツジェラルドをして「言葉とリズムでニールソンはオーストラリアで1番の詩人だ」と言わしめた。
ニールソンはヴィクトリアとニューサウスウェールズで約200の職業を転々としながら、彼の人生の大半をテントや道路工夫のキャンプ、もしくは粗末な家ですごした。そのような負担によって、ニールソンは50代半ばで健康を害した。メルボルンの文人たちがニールソンに連邦文学基金の年金を与えようと働きかけ、ついに1928年、ヴィクトリア州の道路局に職を得た。彼は騒々しい都会が大嫌いであったにもかかわらず、13年間そこで働き続けた。しかしその間あまり詩は書かなかった。1941年、ニールソンは長期の病気休暇をとってジェイムズ・デヴェイニ James Devaney を訪ねた。このときの写真が残っている。
ニールソンは健康を害してメルボルンに戻り、1942年5月12日、独身のまま心臓病で死んだ。彼の遺体はフッツクレイ Footscray の墓地に埋葬された。死後、Unpublished Poems of Shaw Neilson(1947)、Witness of Spring(1970)、The Poem of Shaw Neilson(1965、1973増補版)等の詩集が出版されたが、ニールソンの死そのものは戦争中で一般にはあまり気にもとめられなかった。
石光崇昭1101