オーストラリア辞典
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Nationalisation of banks

銀行国有化



 1945年から1949年にかけて、銀行国営化の問題は最も重要な政治問題となった。当時政権を握っていた労働党の首相兼大蔵大臣であるチフリーに主導された、オーストラリアの銀行国有化計画は、1945年銀行法により顕在化した。そこにはコモンウェルス・バンクの業務を管理している理事会の廃止と、大蔵省による直接的な監督が定められていた。この問題には、長い歴史があり、以前の労働党政権における銀行政策に起源があった。

 戦時における緊急性は、連邦労働党政府の銀行に対する支配を促進し、福祉国家プログラムに要する財政負担の必要性は、その支配をより強固なものとした。これに対し、メルボルン市議会は、政府の関連機関にコモンウェルス・バンクとの取引を強制する条項に反対し、最高裁判所は、1947年に、メルボルン市議会側の主張を認める判決を下した。しかし、チフリーは、労働党が支配する連邦議会の支持を得て、すぐに1947年銀行法を成立させ、銀行の国有化を決定した。

 世界が、社会主義の陣営と自由な企業イデオロギーに基づく資本主義の陣営の2つに分裂していった時期でもあり、銀行法に対する批判の多くは、社会主義への非難を論拠としていた。国有化に反対するキャンペーンは、民間銀行によって主導され、労働党以外の諸政党からの強い支持を受けた。連邦最高裁判所は、憲法第92条(項)を根拠として、チフリーの立法により連邦銀行に与えられた役割は、連邦内の自由取引を保証する規定を侵害しているとして、1948年に銀行国有化を定めた法律が違憲であるという判決を出した。チフリーは、ロンドンの枢密院に上訴したが、ここでも敗れたため、最高裁の判決はより決定的なものとなった。これにより、オーストラリアにおける銀行国有化の試みは終わりを告げたのである。

 銀行国有化に関する一連の議論は、1949年の総選挙における労働党敗北の主要な要因となり、自由党と地方党の連立政権は、その成立後すぐに、将来の銀行国有化への試みを防止するための法改正を行ったのである。

 浅野敬一・山口典子・藤川隆男0103