オーストラリア辞典
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Myall Creek Massacre

マイオール・クリークの虐殺



 1838年6月9日、女子供を含め、少なくとも28名のアボリジナルが、ニューサウスウェールズ北部インヴァレル近くのマイオール・クリークにあったヘンリー・ダンガーの牧場内で殺害された。ここは、現在のビンガラBingaraとデラングラDelungraの中間に位置する。アボリジナルは、ダンガーの牧童の承認のもと、牧場の一角に居住していたが、家畜泥棒に関与したとして殺されたのである。彼らは拘束され、1キロ離れた家畜飼育場に連れていかれた後、射殺され、バラバラに切り刻まれ、死体には火がつけられた。このとき近くの牧場に出かけて難を逃れた10 名のアボリジナルの行方も不明で、同様に殺されたのではないかという説もある。アボリジナルの殺害事件は、これだけではなく、アボリジナルが白人との抗争の末、殺されるという事件は、この地域で他にもしばしば起こっていた。

 事件を知らされたギップス総督は、この事件に個人的関心を抱き、治安判事E.D.デイを調査に当たらせた。マイオール・クリークの死体は燃やされていたため、証拠は消えていたが、12名の白人が、アボリジナルを襲った罪で起訴されたのである。そのなかには、ダンガーの牧童や、その地域のスクウォッターの息子ジョン・フレミングも含まれていた。逃亡した1名を除く11名が、11月15日にニューサウスウェールズ最高裁判所で裁判にかけられたが、黒こげの遺体の残りからは身元が確認できないとして、全員無罪となった。しかし、このような非道に対して無罪では済まされないことを示すべきだという圧力が、イギリス本国の当局の一部からかかり、ギップス総督が再審を命じた。その結果、11月28日に再審が行われ、7名が殺人についての5件の容疑で有罪となり、12月18日に絞首刑に処すという判決が言い渡されたのである。残りの4名は、証拠不十分で後に釈放された。アボリジナルの殺害で有罪を宣告され、死刑を執行された白人は、彼らが最初であった。

 彼らの裁判と死刑執行に対して、世間から激しい抗議の声があがった。彼らを助けるため、ハンター・リヴァー・ブラック協会The Hunter River Black Associationが組織され、彼らに、植民地のなかでも一流の被告側弁護士をつけさせるのに十分な資金を調達した。被告たちが有罪であることに疑いはない。しかし、彼らは、他の多くの入植者と同様に、自分たちの行動を犯罪とは考えていなかった。彼らにとっては、アボリジナルは人間以下の存在であり、アボリジナルの方こそが、危険な殺人者であった。

 この裁判によって、白人移民とアボリジナルとの関係は何も変わらなかったといえる。アボリジナルは、より人目につかない形で、以前と変わらぬ暴力を受けた。彼らを毒殺するという手段が広がり、殺害の証拠は巧妙に隠蔽された。この裁判後、アボリジナルにかんして確固たる政策の必要性が明らかとなり、本国の人道主義者の圧力もあって、アボリジナル保護官、アボリジナル保護区が導入されることになった。

 水野祥子00