オーストラリア辞典
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music

音楽



 初期の植民地の軍隊的性格と一致して、たいていの音楽はその頃連隊楽団により提供されていた。この種の音楽は公的な場合や祭事の場合、そして時に教会の礼拝の時演奏された。ピアノは第1船団の、シリウス号の船荷に含まれていた。植民地の発展にともない、より多くのピアノがもたらされた。1824年にシドニーに最初の音楽店が開店し、予約コンサートが1826年に初めて開かれると、音楽における多様性が広がりはじめる。最初のシドニー音楽協会が1833年に創設され、同年、最初の大劇場、ロイアルもオープンした。一方ホバートにも同様の協会が創設された。1835年までは、モーツァルトやパーセル、ハイドンが演奏されるコンサートというのが、シドニーやホバートの特色であった。

 初期植民地における最も傑出した2人の音楽家は、アイルランド人のウィリアム・ウォリスとアイザック・ネイサンであった。ウォリスはタスマニアやニューサウスウェールズで活動し、1836年シドニーに最初の音楽学校を設立した。彼は後にイギリス人の作曲家であり指揮者である、アイザック・ネイサンに取って代わられる。ネイサンは1860年代まで活躍する。その頃までに植民地の音楽生活は確立され、演奏家が定期的に訪れるようになった。1860年代から、主要な都市が在籍オーケストラをもつようになる1880年代まで、合唱団は急激に増えた。

 メルボルンとアデレイドは音楽教育用の専門機関を設立した最初の町であった。大学で音楽科が新たに発足し、1890年代には音楽院が設立された。ニューサウスウェールズ音楽院はベルギーの音楽家、アンリ・ヴァーブルッゲンの指導の下に1916年に開校された。彼はその滞在中(1915-22)シドニーの音楽生活に多大に貢献した音楽家であった。他の州都がその流れに続いたのはかなり後のことである。音楽院が設立されたのは、ニューサウスウェールズのニューカッスルでは1952年、西オーストラリアでは1950年代、ブリスべンでは1957年、ホバートでは1965年であった。

 最も優れた交響楽団はメルボルンやシドニーにあり、大半がアマチュアの演奏者で編成されていた。1932年にオーストラリア放送委員会(ABC)が初めて楽団を主要都市に創設するまで、彼らは主に自分たちで金銭の工面をしていた。室内楽団は増加を続け、有名なミュージカ・ヴィヴァMusica Vivaは1945年に設立された。

 オーストラリア人の作曲家の中でパーシー・グレインジャ(1882-1961)は最も注目を集めた。彼はヴィクトリアのブライトンで生まれ、1895年からドイツで音楽教育を受けた。彼は人生の大半を海外で過ごし、1918年にアメリカ市民になった。彼は自分の楽曲がオーストラリアでの経験に影響されたものだと主張したが、最も人気のある作品は、スカンジナビアやアイルランド、イギリスを起源とする民謡のメロディーで作った編曲作品であった。人気のある音楽家にもう1人、アルフレッド・ヒルAlfred Hill(1870-1960)がいた。彼はメルボルンで生まれ、ドイツのライプツィヒで音楽教育を受けた。ヒルはニューサウスウェールズ音楽院の創設者の1人であり、その功績は大きい。交響曲「オーストラリア」は、ヒルのオーストラリアでの経験を表現しようとする試みであった。より最近の作曲家にはマルコム・ウィリアムソン、ドナルド・バンクス、ピーター・スカルソープ、リチャード・ミールがいる。指揮者にはリチャード・ボニング、チャールズ・マッケラスがおり、一方ロジャー・ウッドワードはピアニストとして広く名声を得た。

 オーストラリアで最初に演奏されたオペラは1842年にシドニーのロイアル・ヴィクトリア・シアターで開かれた「セビリアの理髪師」であった。オペラは1860年代以降長きに渡って、オーストラリア音楽界を賑わせた。1861年、当時比較的小さな町だったアデレイドでもオペラの定期公演を数カ月維持することができた。1880年代から、J.C.ウィリアムソンの会社は主要な劇場企業であり、1970年代までオーストラリアの上演芸術において大きな影響力をもっていた。ジェームズ・カシウス・ウィリアムソン(1845-1913)はペンシルヴァニアで生まれ、1870年代に女優であり妻であるマギー・モーアとオーストラリアを巡業し、最終的にはこの地に腰をおろした。会社は1882年にメルボルンで設立され、1920年代にはテイト兄弟の手に渡った。

 1906年に、民間のオペラ団体を奨励しようという動きが起こり、1914年のオーストラリア・オペラ連盟の結成に繋がった。1935年のナショナル・シアター・ムーヴメントは1954年までその理念を継承し、1954年にはあらゆる上演芸術を奨励するエリザベス・シアター・トラストの設立が、国民的オペラを可能にした。1970年に設立されたオーストラリア・オペラはトラストの活動から生じたものである。

 最も有名なオーストラリアのオペラ歌手は、ネリー・メルバ(1861-1931)であった。彼女はヴィクトリアのリッチモンドに生まれ、1886年にヨーロッパへ渡り、主にパリで学んだ。翌年ブリュッセルでの「リゴレット」の上演で、彼女の名声が広まり始める。1909年から彼女はオーストラリアとヨーロッパで活躍した。1926年にシドニーで生まれたジョアン・サザランドJoan Sutherlandは、より最近のオペラ界の著名人である。彼女は1952年にコベント・ガーデンの「魔笛」の上演で最初に注目を集めた。彼女の作品のうちのいくつかは、指揮者であり夫であるリチャード・ボニングとの合作であった。

 バレエは1830年代にシドニーとホバートで始まり、その人気の大部分は、1850年代まで両地で演技したジェローム・キャランディーニの努力おかげであった。ゴールドラッシュの時代には、巡業劇団が各地でバレエを上演した。1855-56年にローラ・モンテズLora Montezは、主要な都市の大観衆を魅了し、バララットの人気者となった。20世紀の初期には、ロシアのバレリーナ、アンナ・パヴロウヴァAnna Pavlovaの訪問によりバレエ人気は盛り上がった。彼女は1914年に巡業を行い、1926年と1929年に再びオーストラリアを訪れた。彼女の最後の訪問を契機に、最初のオーストラリア・バレエが結成された。

 しかしながら、バレエにおいて最も重要な人物は、1939年にメルボルンに学校を開校したチェコのバレエダンサー、エドワード・ボロヴァンスキーEdouard Borovanskyであった。彼は1929年にパヴロウヴァと一緒に巡業しており、オーストラリアに本物のバレエを供給するため戻って来たのである。1962年にエリザベス・シアター・トラストによってオーストラリア・バレエ・カンパニーが設立されるまで、バレエの質の向上に大きな役割を果たした。「ディスプレイ」や「メルボルン・カップ」のような、いくつかのオーストラリア・バレエを含む、多くのレパートリーを生み出した。オーストラリア・バレエで最も有名なダンサーは演技と振り付けに優れていた、ロバート・ヘルプマンRobert Helpmannであった。

 見国祐也00