オーストラリア辞典
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Munro-Ferguson, Ronald Craufurd

マンロウ=ファーガソン、ロナルド・クロファード


1860-1934
ファイフ、スコットランド生まれ。
ノウヴァ子爵(1920-1934)、英国下院議員(1884-1885、1886-1914)、オーストラリア連邦総督(1914-1920)。


 1860年3月6日、英国下院議員であったロバート・ファーガソン中佐とその妻エマ・イライザの第1子として、スコットランドのファイフ県レイスハウスに生まれる。1864年、父ロバートがノウヴァの所領を従兄弟から相続し、それ以降は従来の姓に加えて、マンロウの姓を名乗るようになった。マンロウ=ファーガソンは家庭で私的な教育を受け、サンドハーストの王立陸軍士官学校に入学し、1879年から84年の間には、近衛歩兵第1連隊に配属された。1884年に自由党議員として政界に入り、1886年から1914年までの長期にわたって議席を保持した。この間1889年に当時インド副王であったダファリン・アーヴァ侯爵の娘ヘレンと結婚し、1910年には枢密院顧問官を務めている。

 イギリス本国で政治活動の経験を積んだ後、1914年にオーストラリア連邦総督に就任。マンロウ=ファーガソンは、イギリス本国とオーストラリアとの間の仲介を、自らの専権事項であると考えたので、各州の総督との間で摩擦を生じることになった。また、個人的にはオーストラリアの政治に対して極めて辛辣であった。第1次世界大戦の勃発は彼の権限を拡大させ、マンロウ=ファーガソンは防衛戦略において積極的な役割を果たした。1915年に首相となったヒューズを戦争遂行に欠かすことのできない存在と考え、徴兵制の導入をめぐる危機の際にも支援を惜しまなかった。1920年にはスコットランドに帰国。同時にノウヴァ子爵の位を与えられた。連邦政府の優越に関するマンロウ=ファーガソンの主張は、各州の総督を苛立たせるもので、「2度とあのように高圧的な総督を任命しないで欲しい」、という嘆願が植民地省に送られるほどであった。しかし、マンロウ=ファーガソンは林業や科学の振興、メルボルンの美化活動などの功績で広く尊敬を集めており、おそらく初期の連邦総督の中で最も有能であったと思われる。

 スコットランド帰国後もマンロウ=ファーガソンの政治活動が終わることはなく、1922年からは、ボナー・ロウ政権下でスコットランド書記官を務めた。ただし、あまりに政治的な独立心が強かったので、次に政権を引き継いだボールドウィンはやむなく彼を罷免することになった。1925年に政治家への叙勲授与を審議する委員会の会長を務めた。その翌年にはナイトの称号を受け、他にも様々な叙勲を獲得した。1934年3月30日、生まれ故郷でこの世を去った。マンロウ=ファーガソンが総督時代に書き残した詳細な報告書は、彼の死後に出版された公式記録の貴重な史料となった。

 津田博司1101