Moruya
モルーヤ
ニューサウスウェールズ南東部、シドニーの南306キロの海岸に位置する。
人口:2,602(1998)、708(1933)、907(1911)、148(1856)。
地名はアボリジナルの言葉、mherroyahに由来し、「黒鳥の住む場所」あるいは「渡河地」という意味とされる。白人による入植以前はドゥアガのアボリジナルの居住地であった。測量官トマス・フロランスが、1828年に海岸を測量し、1829年フランシス・フラナガンが最初の入植者となった。同年、総督ダーリングは、モルーヤ川を定住地の南の境界であると宣言した。カイオーラKiora村が内陸部に生まれ、カイオーラ・ハウスが1833年から1835年に建てられた。1837年にブラウリーBrouleeが測量され、公示された。郵便局や裁判所が設置され、一時地域の中心地になったが、モルーヤの発展とともに衰えた。1850年モルーヤの測量が行われ、翌年公示された。1855年には郵便局が開局した。アラルーエンの金鉱への経由地として、1850年代後半から栄えた。金が1860年代に近くのワゴンガでも採掘され、モルーヤでは銀が採掘された。ニューステッドの水先案内人の基地は、1860年から1953年に定期航路がなくなるまで用いられた。花崗岩の採石場は1868年にオープンし、1872年から1873年にかけて、シドニーの中央郵便局の柱に使用される石材が切り出された。1924年に採石場は再度オープンし、シドニー・ハーバー・ブリッジが必要とする花崗岩をすべて供給した。1860年代には教会やホテル、銀行などが開設され、新聞も創刊された。また、1876年にモルーヤ川に橋が架けられた。裁判所が1879年に建てられ、1885年にタウン、1891年には自治体となった。さらに1913年に自治体は、ユーロボダラ郡EuroBodallaに統合された。1892年協同組合の乳製品工場がオープンした。第2次世界大戦中は、空港が基地として用いられた。またこの地とベイトマンズ・ベイ間で、トロール船が日本の攻撃を受け、1944年にはアメリカの貨物船がモルーヤ沖で魚雷攻撃を受けた。 キャンベラの成長にともない、ベイトマンズ・ベイと同じように観光がますます重要になりつつある。町には地元の花崗岩を利用した教会建築や裁判所など19世紀の建物が残り、周辺にはカイオーラやフラナガンのホーム・ステッドが残っている。
藤川隆男0403