Menzies, Robert Gordon
メンジーズ(メンジス)、ロバート・ゴードン
1894-1978
ジェパリット、ヴィクトリア生まれ。
連邦首相(1939-41、1949-66)。
1939年から1941年、1949年から1966年という、オーストラリアで最も長期にわたって連邦首相を務めた人物である。特に1950年から1966年は、メンジーズ時代とも呼ばれ、オーストラリアの発展に大きく貢献した。また、その政治的基盤である自由党を築き上げた。
政治家の一家に生まれ、ウェズリー・カレッジ、メルボルン大学で法律を学び、卒業後の1918年にヴィクトリアで弁護士になった。1920年にパティ・レッキーと結婚し、1928年にヴィクトリア州上院議員となった。さらに、翌年から国民党の州下院議員となり、州の法務長官なども務めた。また1929年に、王室弁護士になっている。
1934年にライオンズの招きで、クーヨングKooyongのオーストラリア統一党UAPの議席を受け継いだ。ここから連邦政界に移り、当時のライオンズ内閣に法務長官として入閣し、さらに翌年には党の副党首となった。
1939年4月、ライオンズの突然の死により、メンジーズはその後を受け継ぐこととなった。しかし、戦時体制への対応という問題は、地方党党首ペイジとの対立もあり、彼の率いる政府には重すぎた。また統一党の内部分裂、連立を組んでいた地方党との衝突から、1941年にメンジーズは首相を辞任し、労働党に政権を引き渡した。さらに統一党の党首の座も退いた。
しかし、再び統一党の党首となると、1944年には新たに自由党を結成し、その党首の座についた。自由党は彼の言う「忘れられていた人々」、すなわち中流層を擁護し、個人の能力の完全な発展を目指した。1949年に地方党と連立を組み、政権を手に入れ、メンジーズは首相となることができた。そして首相在任期間の記録を打ち立てるのである。
メンジーズが首相を務めた時期は、冷戦の時代、高度経済成長の時代と一致しており、それが彼の政策の背景となった。彼は自由社会の防衛のために戦後拡大計画を推進した。対外政策、特に防衛においては、ドミノ理論を利用し、ヴェトナム戦争などに軍隊を派遣した。また、前の労働党内閣の社会福祉政策を、彼なりの方法で受け継いだ。オーストラリアの首都としてキャンベラの開発を推進したのは、重要な功績として挙げられる。さらに大学および高等教育における教育制度の改革も行った。
極端な親英家として、アメリカによってオーストラリアの安全が保障される体制が確立した後も、イギリスとの関係を維持した。1954年のイギリス君主(当時エリザベス2世)による初のオーストラリア訪問でホスト役を務め、1956年のスエズ危機ではイギリスの軍事行動を支援し、他の国にも支援を呼びかけた。
1966年に首相を辞任した後、1967年から1972年にはメルボルン大学の学長を務めたが、1978年、そのメルボルンで息を引き取った。
清水寿夫00