Melbourne Cup
メルボルン・カップ
メルボルン・カップは、現在オーストラリアで最も大きな競馬のレースであり、ギャンブル・イベントである。オーストラリア各地の職場で馬券の共同購入などが広く行われている。しかし1861年に始ったときには、オーストラリア・チャンピオン・ステークスという、年により開催地が変わる競馬界のビッグレースをまねてつくられたものであった。そのチャンピオンレースは各植民地から最も強い馬を選出し、植民地が威信をかけて争ったので、レースに勝つことは一種のステータスとなっていた。これに対してメルボルン・カップは、ハンディキャップレースであったので、最初からギャンブル色が強かった。
2年目に20頭の馬が出場したが、それは他の競馬場では見られないほどの出走馬の数であった。1862年にニューサウスウェールズの馬であるアーチャーが前年の勝利に引き続き十馬身もの大差で勝ったとき、ニューサウスウェールズの人々のレースに対する愛着が深まった。
他の国の年に1度のビッグレースといえばイギリスのダービーなどあるが、それらの特徴として挙げられるのが、斤量は一定で距離は2,000mから2,400mくらいの距離で行われるという点である。斤量が一定という条件で、最も能力の高い馬がレースに勝つのである。その結果として、イギリスダービーやケンタッキーダービーの勝者は、その年のチャンピオンホースとして認定される。それによりレース能力と血統に対する評価は高まるのである。メルボルン・カップの勝者は確かに称えられるが、多くの場合競走馬としての評価は上がらず、種馬の管理者たちも繁殖用としての価値は認めない。実例として、132回のレースの勝者のうち、子供が同レースに勝ったという馬は、たったの8頭しかおらず、今世紀においては3頭しか出ていない。一般的にカップの勝者とは、偉大な種馬、肌馬にならないものなのである。成功するのはごく少数である。その理由はレースの成功のため課されるハンディキャップにある。距離は3,200mであり、その距離に合った馬は少なく、それに勝つために馬を鍛えなければならない。そしてカップに能力のピークがくるように無理やり鍛えあげるので、その後の体調維持が難しく、他のレースに勝てなくなることがある。例えば、シンクビッグという馬は、1974年のカップ勝利後、1年後のカップまで1度も勝つことはできなかった。
このようなレースのありようは、アメリカやヨーロッパの競馬関係者からしてみれば、奇妙に思えることかもしれない。なぜなら国の最も大きなレースにおいては、最も強い馬が勝つか、または良い血統を持った馬が勝つのが当たり前であるはずである。だがこれに関する説明というのは簡単である。そもそもメルボルン・カップは、最も強い馬が勝つようにできているのではない。それはある種平均になるよう意図されているものである。ハンディキャップレースであって、理論上ではハンディキャッパーが実直な仕事をすれば、すべての馬が一斉にゴールするはずである。しかしおもしろいことに、メルボルン・カップにおいては「ハンディキャッパーの確実性」というものもめったに存在しない。1981年のカップのとき最後尾を走っていたキングストンタウンは、次の年勝利を手中に収めたかに思われたが、ハンディのために再び敗北した。
もう1つこのレースの不確実性を決定づけるもの、それは3,200mという距離の長さにある。毎年ほとんどの馬がこの距離を体験したことがない。そのためハンディキャップは、その前の短いレースで行われた結果をもとに出されるのである。以上のような要因が合わさっているために、メルボルン・カップは、真の意味でのギャンブルレースとなっている。不確実性という性質が、レースを事実上の宝くじのようにしている。人々はカップを1年に1回どの馬でも当たりそうな予感のする「宝くじレース」として認識している。132回の開催のうち鉄壁の本命が勝ったことは19回しかなく、また40倍以上のオッズの馬が勝ったことが8回ある。
メルボルン・カップの勝者は、必ずしもその年のチャンピオンホースの称号にふさわしくない。ほとんどの馬は単によいステイヤーであっただけである。ただし特別なレースに対する障害(例えば重い斤量の場合)を潜り抜けて勝った馬は、ごく少数ではあるが真のチャンピオンホースと呼ぶことができる。1890年にカーバインは66kgの斤量をはねのけて勝ったし、1930年にはファーラップが62.5kgで勝利した。また、1966年の覇者であるガリリーや1968年、69年と連覇したレインラバーなどは、その後ほかのレースにも勝ち続けるという離れ業を行った。 メルボルン・カップとは、戦う馬が勝つ競馬である。全部の馬に勝てるようにハンディが与えられ、どの馬にも巨額の金を手にいれるチャンスが与えられている。そういった意味でこのレースは、オーストラリアの平等主義を象徴するレースであるといえる。
師井学00