Melbourne
メルボルン(メルバン、メルボーン)
ヴィクトリア州都、オーストラリア第2の都市。
人口:2,865,329(1996)、2,578,759(1981)、1,911,895(1961)、991,934(1933)、53,235(1854)、4,479(1841)、c600(1838)
地名は、1837年に総督バークにより、当時イギリス首相だったメルボルン卿にちなんで名づけられた。それ以前は、ベアブラスBearbrass、ダティギャラDutigalla、グレネラグGlenelgなどと呼ばれていた。1842年にタウンに、1847年にシティになる。ヨーロッパ人による入植以前はワイワルングあるいはBoonwurrungのアボリジナルの土地であった。
1835年に、アボリジナルとの土地購入交渉の目的で、ヴァンディーメンズランドのポートフィリップ協会から派遣されたジョン・バットマンが、小物品と引き換えに24万3,000ヘクタールの土地を先住民から買ったと主張した。同年、同じくヴァンディーメンズランドからジョン・パスコウ・フォークナが、ヤラ川をスクーナー(帆船)エンタープライズ号で遡行して同地に着き、酒屋を開く。翌36年には、シドニーからウィリアム・ロンズデイルが、同入植地(後のニューサウスウェールズ、ポートフィリップ地区)の警察裁判所判事および司令官として派遣される。
1837年に、ロバート・ハドルが測量を行い、長方形の碁盤目の街路を設定した。同年、最初の公有地売却が行われる。1839年に、新聞『ポートフィリップ・ガゼット』と『ポートフィリップ・ペイトリオット』が創刊される。1838年に初めて、ヤラ川に渡し舟が設けられ、1845年に最初の橋(プリンセス・ブリッジ)が架かる。1839年から42年にかけて、最初の公共建築物である税関事務所か建設された。1839年までに、77軒の倉庫・店舗・事務所、89人の親方職人、13人の商人・代理人が存在する。同年、メカニックス・インスティチュートおよび、ジェントルマンのためのメルボルン・クラブが創設され、翌年に、郵便局と病院が建てられた。1840年頃、ジョリモントが建てられ、ラトローブが移り住む(1963年にナショナルトラストにより復元される)。1841年から46年にかけて、旧メルボルン刑務所が建設される。1841年に、聖フランシス・カトリック教会とスコットランド教会が建てられた(1870年代に改築)。1839年から47年にかけて、セントジェームズ旧大聖堂が建設される(現在の場所に移るのは、1913-14年)。また、1846年に、メルボルン病院が創立されている。1840年代初めに、富裕層の住宅地域としてイースタンヒルの開発が行われたが、1840年代半ばには、建築ブームは崩壊した。1845年に植物園用に敷地が確保され、1850年代にフェルディナンド・フォン・ミューラーの指揮の下、整備が進んだ。
1850年頃、トゥラクが建てられ、商人だったJ. ジャクソンが移り住み、1854年から76年までの間、総督の邸宅として利用された。1851年に、ニューサウスウェールズから分離した新植民地ヴィクトリアの首府となると同時に、ゴールドラッシュによって急速に発展することになった。1852年には、金鉱地をめざす一時滞在者が溢れる「テント町」が生まれ、エメラルド・ヒル、ホサム、およびセントキルダの周辺部の測量が行われた。1850年代半ばに、カールトン、エセンドン、フレミントン、およびサンドリッジの区割りが行われ、町は郊外へ急速に拡大した。1853年に、メルボルン・クリケット競技場MCGが建設される。1853年から57年にかけてヤンイーン貯水池が建設され、上水道の供給が始まった。民間会社により、1854年にはサンドリッジまで、さらに50年代末にはブライトン、エセンドン、ホーソーン、プララン、セントキルダ、ウィリアムズタウンまで鉄道が敷設され、郊外への拡大がさらに助長された。1854年に公立図書館の建設が開始され、翌年にオーストラリア最初の電信サーヴィスがメルボルン=ウィリアムズタウン間で始まる。1855年にメルボルン大学が創立される。1856年にガス工場が建設され、翌57年から街灯がともる。同年、議会議事堂(第1回連邦議会が開催された場所)の建設が開始され、1930年に完成した。1858年に最初のオーストラリア式フットボールの公式競技が行われる。1858年から79年にかけて、ウィリアム・ウォーデルの設計で、セントパトリック・カトリック大聖堂が建設された。また、1859年に中央郵便局の建築が始まり、これは67年に完成した。1850年代には、ゴールドラッシュで流入した中国人によるチャイナタウンの発展もみられる。その面影は現在のリトル・バーク・ストリート周辺に残っている。
1854年に、現存する最古の日刊紙『エイジ』が創刊された。1861年までに、メルボルンのオーストラリア最大の都市となり、その後も金融、商業の中心として発展を続けた。同年、第1回のメルボルン・カップが開催され、オーストラリア初の公立美術館が公立図書館内にオープンした。他方、1860年代にロイヤル・パーク内にあったアボリジナル・キャンプには、ヤラ、バララット、ジロング、ゴールバーン川流域にいた集団の生き残り約30人が収容されていた。1862年にオーストラリアに現存する最古の動物園が開園し、1864年から建築が始まったカールトン醸造所は、1909年にカールトン・アンド・ユナイテッドの一部となった。1867年から1870年にかけてタウンホールが建設され、続いて税関事務所が新築され、造幣局が設立された。1874年から76年にかけては、ウィリアム・ウォーデルの設計で総督官邸が建てられた。
1880年に最初の電話交換局が開設される。同年、国際博覧会のための施設がオープンする。1884年に、乗客用エレベーターが初めて導入され、1889年までに、当時世界で3番目に高い13階建てのビルが建設された。1885年から91年にかけて、フランシス・クラップの指揮の下、17路線、複線71キロに及ぶケーブル鉄道のシステムが建設され、郊外の住宅開発が急速に進み、不動産ブームが起こった。1887年に、プリンセス劇場が建てられ、翌88年、オーストラリア入植百周年記念博覧会が開催された。
1890年代初頭に、不動産・株式投機ブームが崩壊し、金融恐慌が起こった。1893年には銀行の倒産が相次ぎ、メルボルン経済は大打撃を受けた。同年、市中心部に隣接する埋立地にヴィクトリア・ドックが開設される。翌94年から、電気がメルボルンとエセンドンに供給された。
1901年から27年までの間、連邦議会の所在地となったが、シドニーがメルボルンに取って替わり、最大の都市になった。1906年に、メルボルン交響楽団が設立された。1908年、フリンダーズ・ストリート駅が建てられ、1911年には、鉄道電化計画のためにニューポート発電所が建設された。また、1914年には、初めての航空郵便サーヴィス(シドニーまで)が開始された。
1919年に、インフルエンザが大流行し、2,391人が死亡する。1921年にエセンドン空港が開設され、最初の有線放送がメルボルン=ブライトン間で行われた。また、1924年にラジオ放送が始まった。1923年、石油精製所がアルトナに建設され、20年代には、自動車および航空機産業が発展した。1923年に警察官のストが起こり、そのため略奪・暴動が頻発し、一時、一般市民から警察官を募る事態となった。1920年代末から30年代初めにかけての世界恐慌により、労働人口の3分の1が失業し、ブロードメドウズでは失業者のためにキャンプが設けられた。1934年に、第1次世界大戦戦没者記念碑が完成し、翌35年、ヤラ川沿岸のフィッシャーメンズ・ベンドにあるジェネラルモーターズ・ホールデン社の自動車工場が、操業を開始した。第2次世界大戦中は、南太平洋地域の連合軍司令部が置かれ、多くのアメリカ兵が駐留した。また、戦時中に航空機産業が大いに発展した。
1950年代には、工業化が急速に進展し、ブラックバーン、ボックスヒル、ブロードメドウズ、グレンロイ、ハイデルバーグ、モラビン、サンシャイン、あるいはポートフィリップ湾沿岸といった場所が、新郊外として発展する。同時に、カールトンのイタリア人コミュニティーの例のように、近郊地の多くが、戦後入国した移民の居住地区となった。1954年から55年にかけて、新たに大規模な石油精製所がアルトナに建設され、さらに、石油化学工場が後に続いた。1956年オリンピック大会の開催地となり、MCGが拡張され、水泳プール・他の競技スタジアム・選手村などが建設された。1959年にブロードメドウズのフォード社自動車工場が操業を開始し、1961年にモナシュ大学が、64年にはラトローブ大学が創立された。1966年から69年にかけてスワンソン・ドックが開発され、オーストラリアで最初にコンテナ船受け入れの設備をもつ港となった。60年代初頭から、市の中心地および東のセントキルダ・ロード沿いに高層オフィスビルが林立する。古い石造建築は破壊され、鉄筋コンクリートのビルが立ち並ぶようになった。60年代後半には、オーストラリアのヴェトナム戦争介入に抗議して、最も大規模なモラトリアムが敢行されている。1968年に、ヴィクトリア芸術センターの一角に国立美術館が開設され、実業家アルフレッド・フェルトンの1904年の遺贈コレクションなどを展示した。1970年には、エセンドン空港の混雑を解消するために、タラマリーン国際空港Tullamarineが開港する。1968年からヤラ川下流に建設されていたウェストゲイト橋は、70年にいったん崩れ落ちるが、78年には再び開通した。1975-77年に、オーストラリアで最初に、パブリック・アクセス方式(リスナー製作番組放送)を取り入れたエスニック・ラジオ放送局が開局する。ヴィクトリア芸術センター内に、1982年にはコンサートホールが、84年には劇場が建設された。1981年に、市の地下鉄が運行を開始し、85年に全線が完成した。ベリック、メルトン、サンベリなどの衛星都市開発計画が進められる一方で、郊外の拡張は80年代においても進行した。
宮崎章・藤川隆男0303