mechanics' institutes, school of arts
労働者専門学校、メカニックス・インスティチュート、技術学校
その原型は、18・19世紀の世紀転換期にスコットランドで生まれたと言われる。産業革命にともなって多様化した技術に対応するための教育を、労働者階級に与えることを目的としていた。教育内容は、技術や読み書き、算数など多岐にわたった。19世紀前半イングランドで多くの施設が建設され、ほとんどの町がメカニック・インスティチュートあるいはスクール・オヴ・アーツと呼ばれる施設を有するようになった。
オーストラリアではじめてのメカニックス・インスティチュートは、1833年に設立されたシドニー工場労働者専門学校であった。この学校は、囚人による道徳的堕落に対抗するものとして、バーク総督の推薦、援助により建てられたものである。ヘンリー・カーマイケルの指導下で始まり、ピーク時には約600人が在籍した。
シドニーに学校が設立される前にも、同様の学校として、1827年ホバートにスクール・オヴ・アーツが設立されていた。名前は異なるがこれは同種の施設である。1830年代以降は、各地に労働者専門学校が設立されるようになった。ニューサウスウェールズのニューカッスルや、1838年にはアデレイド、1839年にはメルボルン、さらには1842年にブリスベン、1851年にはパースにも設立された。
典型的なメカニックス・インスティチュートは、先に述べたようなさまざまな教科を教え、貸し出し無料の図書館を備え、巡回講座の開催地となることが多かった。これらは、労働者改善のために作られたものだったが、早い段階から聖職者や教師など専門職の人々や、上昇志向の強い熟練労働者の溜まり場となった。しかし、1850年代に入ってシドニー大学が設立されるなど高等教育が発展すると、技術などを教えるという本来の目的が達成されにくくなり、さらには同時期から始まる教育改革によって、その教育は公立学校での教育と重複するものとなった。19世紀の第4四半期にその数が急速に増大するにもかかわらず、1890年代にはしだいにその存在価値を失っていった。19世紀終わりからは、複合施設となり、教育機関に吸収されるものと、社会施設に吸収されるものとに分かれた。社会施設となったものには、図書館などの形で残ったものが多い。
山崎雅子00