maritime industry
水産業
牧畜業に基づく植民地経済が確立される以前(1830年代初頭頃まで)、オーストラリアの輸出産業を担っていたのは、太平洋で獲れる水産物である。また植民直後、そこで行われたアメリカやタヒチとの交易も、乏しい食料供給に貢献した。
主要な輸出産物として最初に注目されたのは、フィジーなど太平洋諸島に産する白檀材である。1805年、もと囚人で植民地の有力な商人となったシミアン・ロードSimeon Lordは、白檀を陸上げしたが、中国への輸出には失敗した。その後白檀の貿易は、東インド会社独占の影響もあり、発展することはなかった。
結局、主要な交易品を提供したのは、アザラシ猟と捕鯨である。1792年からアザラシ猟が始まり、その油は植民地での利用に加え、輸出もされた。さらに、その皮は中国市場でもてはやされた。アザラシ猟の中心地バス海峡と、産業の中心地ヴァンディーメンズランドといったオーストラリア南部の海域は大いに栄えた。
アザラシ漁は造船業の発達を促した。また、貿易や企業活動を刺激した。1800年、インドからやって来たロバート・キャンベルは、シドニーに交易拠点を設けた。また、シミアン・ロードだけでなく、ヘンリー・ケイブルとジェームズ・アンダーウッドも、アザラシ猟を基盤に他の事業に乗り出した。アザラシ猟の発展がヴァンディーメンズランド植民の要因の1つであった。しかし、1820年代になると資源が枯渇し始め、捕鯨がこれに取って替わることになる。
1805年頃、捕鯨業はヴァンディーメンズランドを中心に発展した。1820年代には、沿岸捕鯨だけではなく、遠洋捕鯨も海外の資本の導入によって行われるようになった。牧畜業がより魅力的な投資先として登場する1840年代まで捕鯨業は栄えた。40年代の不況は捕鯨業に大きな打撃を与えた。ベンジャミン・ボイドは、海運・捕鯨・牧畜に多額の投資を行い、ニューサウスウェールズ南岸に捕鯨基地を設けたが、多額の負債を残し破産した。
1850年代までには、照明用の鯨油は、より利用しやすく、手に入りやすい代替物に取って替わられた。1830年に輸出の42%を占めていた海産物は、羊毛に取って代わられ、1835年には20%まで落ち込み、次第に衰退していった。
遠藤貴弘0501