Mannix, Daniel Patrick
マニックス、ダニエル・パトリック
1864-1963
チャールヴィル、カントリー・コーク、アイルランド生まれ。
メルボルンのローマ・カトリック大司教(1917-65)。
メルボルンのカトリック大司教で、論争好きな人物であった。彼が関わった論争は、カトリック・スクールへの政府の援助要求や、アイルランド独立の支持、第1次世界大戦時における徴兵制反対など多方面にわたる。また、オーストラリア労働党から反共産主義派が離脱するきっかけを作った。
マニックスはアイルランドの小作農家に生まれた。聖職者になるためにメイヌースの聖パトリック・カレッジで学び、後にそこで教鞭をとり、1903年から1912年まで学長を務めた。学長在職中、彼は教育問題への取り組みで評価されたが、政治問題にも関与したので、アイルランドのナショナリズムに敵対していると考えられた。1913年にメルボルンの助任大司教として、高齢だったカー大司教を支えるために、オーストラリアへ来た。マニックスにはオーストラリアに永住する気持ちはなかったかもしれないが、再びメイヌースへ戻ることはなかった。1917年に大司教となったが、そのときすでに彼の名は国中に知られていた。メルボルンの信者たちは、マニックスの行政能力や社会・教育への関心に由来するリーダーシップ、議論の才能ゆえに、彼を歓迎した。マニックスの気質や信念は、1911年からオーストラリアのカトリック信者たちの中で興っていた好戦性と一致した。マニックスはプロテスタントと対立し、両者の溝は彼が1916年のアイルランド・イースター蜂起を支持したことで深まった。アイルランドに対するイギリスの弾圧は格好の攻撃の的となった。これとともに、マニックスは、1916年と1917年の徴兵制導入の可否を問う国民投票で反対を訴え、反対運動の最も重要な指導者となった。イギリスが1920年にマニックスのアイルランドへの入国を認めなかったときには、オーストラリアでその是非をめぐり論争が起こり、世界中の注目を集めた。
マニックスは早い時期にオーストラリア労働党との関係を確立し、民主主義的傾向を持ち、資本家を攻撃することで労働者の人気を集めた。しかし1950年代には、彼は反共産主義に傾き、労働党と対立するようになる。彼は当時誕生したばかりのナチズムの本質を認識しており、資本主義も共産主義も、激しく批判した。
1930年代後半までに、マニックスはメルボルンの名物となっていた。町では、シルクハットにフロックコートという、時代遅れで芝居がかった服装で散歩をしている姿がよく見かけられた。しかし服装は時代遅れでも、彼の興味は同時代の中にあった。各州の労働党内には共産主義者が台頭しつつあり、それと戦おうとしていた政治評論家のB.A.サンタマリアの活動を支援した。マニックスは若手信者を使って、共産党系組合と労働党左派への秘密闘争を開始した。1945年から、インダストリアル・グループによる労働党右派の活動が行われたが、このグループの構成員の3分の2がカトリック教徒であった。1954年、労働党党首エヴァットは、これらの活動をカトリックの陰謀として非難した。結局1955年に労働党は分裂し、反共産主義者は党を脱退して民主労働党を作った。カトリックの意見も2つに割れ、一方は労働党支持を続けるべきだと主張し、一方はマニックスに従って反共産主義の態度をとるべきだと主張した。教会の論争は1957年のヴァチカンの決定により、マニックスとは異なる立場をとることで落ち着いた。マニックスはこの決定を表向き受け入れつつも、個人的にはサンタマリアの支援を続け、死ぬまで労働党批判を続けた。
1963年11月6日、マニックスは大司教在任のままメルボルンで死亡した。死の直前までカトリック・スクールへの支援について検討していた。彼の死後、使用人に残された遺産の他には、150ポンドの狩猟用金時計と、「神はアイルランドを守り給う」と書かれた置時計だけが残った。
山口典子・藤川隆男0303