Maitland
メイトランド
ニューサウスウェールズ中東部、シドニーの北163キロ、ニューカッスルの北西、ハンター・ヴァリーの入り口に位置する。
人口:50,108(1996)、38,865(1981)、 19,151(1947)、7,304(1881)、4,230(1851)、1,163(1836)。
メイトランドは、おそらくローダーデール伯であったフレデリック・メイトランドに由来する。かつては先住民アワバカルAwabakalあるいはWanaruahの土地であった。古くからモリー・モーガンズ・プレインズMolly Morgan's Plains、ウォリス・プレインズWallis Plains、ザ・キャンプThe Campなどの地名で知られてきた。ザ・キャンプは、1804年に杉の伐採者のキャンプが置かれたことから名づけられた。これは1812年には村へと発展した。農業に適した肥沃な川沿いの土地は、解放囚人や自由移民によって、1823年から開拓された。警察駐屯所が東メイトランドに置かれたのは、1827年のことである。
1831年に、ウィンザーWindsorからの道路が開通するや、メイトランドはニューカッスル以上の重要都市になった。また、シドニーまでの汽船の運行が始まったのもこの年のことである。1819年の洪水以降の入植者の数の増大にともなって、入植者の多くが、より安全な場所にタウンを形成することを請願し始めたので、メイトランド地域の測量が1829年に行われ、1833年にメイトランドのタウンの設立が公示された。他方、1834年にその西の集落が、ウェスト・メイトランドとして知られるようになると、混乱をさけるために、メイトランドは1835年からイースト・メイトランドと呼ばれるようになった。ウェスト・メイトランドが商業的中心地になったのに対して、イースト・メイトランドは行政上の中心地となった。
1834年には、ニューサウスウェールズにおける、シドニー以外で最初の蒸気製粉場が、西メイトランドで操業を開始した。1840年にはヴィクトリア・ホテルが建設され、1843年には、オーストラリアで現在2番目に歴史の古い新聞である『メイトランド・マーキュリー』が創刊された。1844年から1848年にかけて監獄が建築され、1846年から1849年にかけては病院が、そして、1849年にはプレスビタリアン教会が建設され、1850年頃には隣接して学校も建造された。
1857年、ニューカッスルからの鉄道路線が開通し、1860年から1862年にかけては、ブラフ・ハウスBrough House、グロスマン・ハウスGrossman Houseが建てられた(前者は現在美術館となっている)。1866年、東メイトランド裁判所が建てられ、翌年、セント・メアリーズ・アングリカン・チャーチが落成した。1870年代からは、西メイトランド地域の炭坑開発が始まり、地域の経済を支えるようになった。
1925年には、スピードウェイにおける世界初のカーレースが行われた。1860年代に東・西メイトランドは自治体になっていたが、1944年にモルペスが加わって、メイトランド・シティが誕生した。第2次世界大戦後には、ポーランド人を中心とする移民が流入し、文化は多様化した。現在、町は商業や軽工業、観光などで栄えているが、ニューカッスルや炭田へ通勤する人も多い。町には非常に多くの歴史的建造物が残っている。
平野孝展・藤川隆男0403