オーストラリア辞典
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Macquarie, Lachlan

マクウォリー、ラクラン


1762-1824
スコットランド生まれ。
陸軍軍人、ニューサウスウェールズ総督(1810-1821)。


 ラム酒の反乱後に着任し、植民地の独裁的な統治者として、囚人労働を利用した公共工事、エマンシピストの活用などを行う。彼の在任期間中に植民地の発展の基盤は確立した。その間に人口は11,590人から38,778人に増加。羊は2万6,000頭から29万頭、牛は1万2,500頭から10万3,000頭、耕作面積は3,000ヘクタールから1万3,000ヘクタールに増加した。

 マクウォリーは1762年1月31年、スコットランドのヘブリデス諸島で生まれた。父はアーガイル公の借地農で大工であったともいわれる。その母はクランの族長マードック・マクレインの姉(妹)であった。父親の死後は弟のチャールズとともにマクレインの保護のもとで暮らした。

 1776年彼は軍に志願し、マクレインも隊長として従軍する、翌年第84連隊、通称ロイアル・ハイランド・エミグランツに参加し、北アメリカへ送られた。アメリカ独立戦争に従軍し、1781年には71連隊の将校となるが、84年にスコットランドに帰国し、部隊は解散、予備役についた。マクレインのコネクションにより1788年には将校として東インドに赴任する。

 インドでは将校となるために作った負債を返済するだけではなく、約1,000ポンドの財産を得て、旅団副官に昇進した。さらに、元西インドの有力者の娘ジェーンと1793年に結婚した。その義理の兄弟は東インド会社の富裕な元社員であった。1796年彼女が死ぬと、マクウォリーは6,000ポンドの遺産をえた。

 1797年には、ボンベイの主計長官代理の職を購入、さらにインドでの戦争への参加によって1,300ポンドの賞金を得て、1800年にはボンベイ総督の軍事秘書官となった。1801年には対フランス・エジプト遠征に参加し、少佐への昇進が決定した。エジプト遠征はさらなる富をマクウォリーにもたらし、彼は故郷で叔父の地所を約1万ポンドで購入した。これはハイランドのレアードlairdになりたいという夢の実現でもあった。

 1803年イギリスに帰国すると、フランスとの戦争が始まった。マクウォリーは中佐に昇進、ロンドンに赴任し、国王への謁見を許され、イギリスの社交界に迎え入れられた。しかし、1805年に再びインドに向かい、イギリスに帰国後に再婚した。1808年ラム酒の反乱を受けて、イギリス政府は第73連隊の派遣を決定。マクウォーリは副総督の地位でニューサウスウェールズ植民地に向かうことになったが、総督内定者が辞退したので、総督として赴任することになった。

 マクウォリーは1809年12月28日にシドニーに到着、翌年1月1日総督に就任した。すぐさまラム酒の反乱で退いた役職者を復帰させ、「革命政府」のすべての行為を無効とした。ニューサウスウールズ軍団の解体により、マクウォリーはこれまでの総督の誰よりも強大な権力を自由にふるうことができる立場についた。

 1810年10月マクウォリーはシドニーに新たに市場を開設し、パラマッタにも3年後に公設の市を設けた。16年にはイギリス政府の反対にもかかわらず、植民地最初の銀行の設置を認めた。彼は植民地の拡大にも熱心で、探険を奨励し、ウインザー、リッチモンド、リヴァプール、カースルレイ、ピットタウン、ウィルバーフォースなどの町を命名した。パラマッタへの道路建設、「ラム病院」と呼ばれた病院の建設や、その他多くの公共建築の建設を囚人労働を用いて行った。

 マクウォリーの在任中、流刑囚の数は10倍になったが、1人当たりの必要経費は3分の1に低下した。囚人の宿泊施設を整え、刑の執行猶予状の制度を整備し、過度の体罰を禁止した。道徳への関心が高く、正式な結婚を奨励し、安息日の規制を強化した。さらに学校を建設し、パブの数を制限した。また、彼自身は極めて保守的であったにもかかわらず、刑期を終えた囚人を他の人間と対等に扱うという、極めて進歩的な態度も持ち合わせていた。この政策はリヴァプール卿や、ウィルバーフォース、1812年の流刑に関する委員会の支持を得たが、イクスクルーシヴズと呼ばれる植民地の地主や官僚などの反感を招いた。サミュエル・マーズデンやベント兄弟などはマクウォリーと衝突した。アボリジナルに対しては文明化政策を採用し、先住民学校を設立したり、パラマッタで交流を行ったりしたが、抵抗する者には攻撃を仕掛けた。

 1817年12月、カースルレイとの間に8年で年金を受けることができるという約束があったので、マクウォリーは辞職を願い出た。このとき本国では、マクウォリーの統治への不信が高まり、その調査が行われることになった。その責任者になったのがビッグであり、彼は1819年9月に植民地に到着した。植民地でビッグとマクウォリーは対立し、ビッグはマクウォリーの反対者の見解を大幅に採用した報告書を作成した。マクウォリーは1820年末に辞職が受け入れられたことを知ったが、植民地を立ったのは、後任者が着任して3カ月後の22年の2月であった。7月イングランドに戻ると、ビッグの報告書の一部がすでに公表されていた。その後ヨーロッパへの旅に出るが、その間に第2、第3の報告書が公表され、この「偽りと悪意に満ちた執念深い報告書」に反論するためロンドンへ戻り、あわせて約束された年金の獲得に努めた。しかし、その工作は実らず、スコットランドに戻るが、土地の投資は実りを生まず、レアードとしての豊かな生活は夢と消えた。このような状況下でロンドンに向かい、1824年の4月にバサーストから1,000ポンドの年金の確約を得るが、同年7月1日にロンドンで急死した。

 マクウォリーは大牧場による羊毛生産に基づく、自由な植民地の発展の未来像を描くことはできなかった。その意味で、彼の政策は未来を志向したものではなかった。しかし、マクウォリーの囚人や刑期を終えた囚人に対する寛大な扱いは、極めて進歩的なものであった。当時の常識では受け入れがたいほど革新的なものであったと言える。おそらく、それがマクウォリーへの非難の最大の原因であった。

 藤川隆男00

キャンベルタウン