Macarthur, John
マッカーサー、ジョン
1767?-1834
ストーク・ダメレル、プリマスの近く、イングランドに生まれる。
オーストラリアの牧羊業の創始者の1人、ラム酒の反乱の首謀者。
ニューサウスウェールズ軍団の将校としてオーストラリアに到着し、メリノ種の羊の飼育の発展に貢献した。植民地の総督の多くと対立し、1808年1月のラム酒の反乱では指導的な役割を果たした。ビッグ報告書に影響を及ぼした人物としても知られ、1825年から32年までは立法評議会のメンバーであった。
スコットランド人のプリマスの服地商、アレクサンダーの息子として生まれ、1782年15歳の時にアメリカ遠征を準備中のフィッシュ軍団に旗手の職を得るが、軍団はすぐに解体、農業に従事する予備役の生活が始まる。1788年にようやく現役に復帰後、89年ニューサウスウェールズ軍団の将校としてボタニー湾に駐留することになって、劇的にステイタスを上昇させることが可能になった。ジョン・マッカーサーは、コーンウォール出身の家系につながるエリザベスと1788年に結婚、第2船団で彼女と長男のエドワードとともに植民地に向かった。
1790年6月28日、植民地到着後、ローズ・ヒルに駐屯するが、その傲慢な性格のゆえに総督フィリップの譴責を受けて、一時総督官邸への出入りを禁じられた。しかし、フランシス・グロースのもとで、1792年に軍団の主計官になり、翌年公共工事の視察官となった。これはマッカーサー自身の個人的な商取引の拡大に大いに役立った。また、グロースから無償交付されたパラマッタの100エーカーの土地をエリザベス農場と名づけ、無償の囚人労働により土地を開墾し、さらに100エーカーの土地を得た。こうしてマッカーサーは、植民地で最も有力な農業経営者となり、1794年には政府に農産物を売るまでになった。マッカーサーは、ニューサウスウェールズ軍団のコネクションにより、勢力を拡大したが、第2代総督ハンターが着任すると、マッカーサーは総督と対立、その本国召喚に成功した。続くキング総督とも対立し、1801年9月14日に彼の上官であるパターソンと決闘し、逮捕され、軍法会議のためにイギリスに送還された。
マッカーサーは、幸運にも帰国途中アムボイナで、皇太子の主治医の息子と友人となり、強力な後ろ盾を獲得した。また、イギリス帰国後も、本国では事件の詳細を調査することが不可能であるという理由で、軍法会議にかけられることはなかった。逆に、ナポレオン戦争のために戦略物資が不足していたこともあり、持ち帰った羊毛のサンプルが高く評価され、マッカーサーは、ニューサウスウェールズ軍団からの除隊を認められ、カムデン卿から5,000エーカーの土地の無償交付を約束され、羊毛産業の発展のために貢献することを認められた。またこの時、国王のメリノ羊を獲得し、アルゴー号で帰国した。
本国で獲得した後ろ盾を背景に、マッカーサーは植民地で最良の土地をカウパスチャーに獲得し、貿易にも乗り出した。しかし、マッカーサーは、次の総督ブライとも対立する。1808年1月、マッカーサーはニューサウスウェールズ軍団の指揮官であったジョージ・ジョンストンを説得し、クーデター(ラム酒の反乱)を起こした。彼自身植民地長官の地位について、7月18日にファヴォウが指揮権を掌握するまで、事実上植民地を支配した。
1809年総督代理のパターソンは、弁明のためにマッカーサーが帰国することを許可した。マッカーサーは、イングランドに帰国すると、イングランドでは一般市民を反逆罪では告訴できないとの理由で起訴を免れた。しかし、カースルレイ卿は、ニューサウスウェールズでの起訴を命じたので、植民地に戻ることができなくなった。1817年になって、公的な問題に干渉しないという条件で、マッカーサーは、ようやくニューサウスウェールズへ戻る許可を得た。マッカーサーは、総督マクウォリーが、彼への無償の土地交付や経済的特権の付与に消極的だとわかると、あらゆる努力を払いその本国召喚を実現しようとした。彼は、植民地の調査に来たコミッショナーのビッグに大きな影響力を及ぼし、本国政府の囚人労働による大牧場経営という植民地の将来構想の策定に貢献したと言われている。
1820年代前半には、マッカーサーは植民地における最も優れた羊毛の生産者として、ロンドンで認められるようになり、ニューサウスウェールズでさらに無償の土地交付を受けることができた。1820年代末には、彼の農場カムデン・パークは6万エーカーもの規模に達した。総督ブリスベンは、マッカーサー家の人々を寵愛し、1822年にはジョンを治安判事に任命しようとしたが、法務長官ジョン・ワイルドや判事バロン・フィールドなどの反対によって、それは取り消された。1824年には、オーストラリア・アグリカルチュラル・カンパニー(オーストラリア農業会社)の設立に成功し、100万ポンドの資本金を集め、ポート・スティーヴンズに100万エーカーの土地の無償交付を受けた。
1825年、マッカーサーは立法評議会のメンバーになると、イクスクルーシヴズの代表者、ピュア・メリノの代弁者としての地位は揺るぎのないものになる。しかし、総督との対立は続き、ダーリング総督とは立法評議会の構成をめぐる長い争いを起こした。1829年にも再度立法評議会に任命されたが、32年総督バークによって狂気を理由に解任された。1834年4月11日、ジョン・マッカーサーは死亡し、カムデン・パークに埋葬された。
彼が、初期ニューサウスウェールズ植民地で、大きな影響力を及ぼすことができた理由の1つは、彼のパトロンであったカムデン卿の力であったが、もう1つの理由は、農場の運営を実際に行った妻エリザベスと子供たちの力であった。
藤川隆男00