Lyons, Joseph Aloysius
ライオンズ(ライアンズ)、ジョゼフ・アロイシアス
1879‐1939
タスマニア生まれ。
政治家、タスマニア州首相(1923‐1928)、連邦首相(1932‐1939)。
1932‐1939年に連邦首相を務め、公共支出、賃金及び年金などを切り下げるデフレ政策により、大恐慌に対処しようとした。また、統一オーストラリア党UAPの初代党首である。
タスマニアでアイルランド系の両親のもとに生まれ、あまり豊かではない中産階級の家庭に育った。カトリック系小学校、スタンリー州立学校及びホバート師範学校で教育を受けた後に教師となった。1915年35歳のときに、メソジスト児童学校の教師をしていたイーニッドと結婚した。なお、イーニッドは、ライオンズの死後、1943年に女性として初の連邦下院議員となり、1949年にはメンジーズ内閣に入閣した。
しばらくの間教師を勤めた後に、1909年にタスマニア下院に議席を獲得し、労働党タスマニア州政権の文部相や蔵相を務めた。労働党が徴兵問題をめぐって分裂した1916年、ライオンズは、アイルランド・ナショナリズムの心情から、徴兵制に反対した。徴兵制をめぐる労働党の分裂を契機に、ライオンズは州労働党の指導者となった。1919年の選挙で敗北したが、1923年の選挙で少数与党ながら連立を組んで政権を獲得、州首相兼蔵相となった。彼は、合意形成を重視する政治スタイルを確立するとともに、州財政を再建した。
1929年には連邦下院に転じ、スカリン政権の閣僚となった。しかし、蔵相代理であった1931年、ライオンズは、セオドアE. G. Theodoreの蔵相への復帰の問題や、大恐慌への対応についての相違から、閣僚を辞任し、労働党も離党した。
ライオンズは、同時に労働党を去った者や国民党とともに、統一オーストラリア党UAPを結党し、党首の座に就いた。労働党からの離党は、彼にとって苦しい経験であった。「誠実なジョー」と呼ばれたライオンズは、人々の人気を得て選挙に勝利し、1932年に連邦首相となった。ライオンズは、政権の座にいた間には、あまり効果的な政策を打ち出すことができなかったが、1934年まではUAPの単独政権を率い、その後は地方党との連立政権を維持した。また、不安視された1937年の選挙にも勝利した。しかし、次第に彼の健康状態が悪化するなかで、ライオンズ政権は、再軍備問題に対して断固とした姿勢をとることができなかった。ライオンズは、1939年、連邦首相在職中に死去した。
日本語の文献では、ライアンズとして現れる場合もある。
浅野敬一00