La Perouse, Jean-Francois de Galaup
ラ・ペルーズ、ジャン=フランソワ・ドゥ・ガーロウ
1741-1788
アルビ、フランス生まれ。
探検家、軍人(海軍)。
アーサー・フィリップの第1船団とほぼ同時期に、ボタニー湾に到着したフランス人探検家。
15歳で海軍に入り、1759年11月ベル島沖でのホーク提督との海戦で、フォーミダブル号に搭乗していたが、イギリス軍の捕虜となる。帰国後、その高い測量技術により再び海軍関係の仕事につき、その関心を海洋学に集中させていく。1775年4月に副船長、フランスのアメリカ独立戦争参加後の1780年には船長となった。彼が海軍指揮官として頭角をあらわす機会を得たのは、1782年8月のハドソン湾での対イギリス戦においてである。また、残された入植者のために、越冬用の武器食料を残しておくといった博愛精神も示した。
1783年、フランス政府はジェームズ・クックが果たせなかった探検事業を完遂するため、太平洋への遠征を決定した。遠征の対象は、16世紀以来の謎であったベーリング海峡である。その計画書は現在ルーアンの市図書館に保管されている。遠征指揮官に選ばれたのがラ・ペルーズであり、率いる2隻の船は、ブソール号 とアストロラブ号であった。
1785年8月1日、彼はブレストを出航してブラジルへ進み、ホーン岬を回り、中国で一時寄港、その後アラスカに向かった。ついでカリフォルニアまで沿岸を調査しつつ南進し、そこから西へ転じ太平洋を横断して、マカオとマニラに到着した。1787年4月10日には、キリスト教宣教師によって伝えられていた朝鮮半島の北部を調査し、さらにサハリンが島であることを発見。パリへの発見報告をレセップスに託す一方で、彼は南へ転じた。12月、かつてブーゲンヴィルが訪れたサモアで、水の補給を試みたが、現地住民の攻撃を突然受けて、ドラングルほか12人が殺害された。そのためラ・ペルーズは補給することなく出航し、ノーフォーク島とボタニー湾に到着する。1788年1月24日に陸地を発見していたが、悪天候のため2日間も湾に入ることはできなかった。すでにアーサー・フィリップの第1船団は到着しており、シリウス号に待機していたハンターがラ・ペルーズを手助けした。ラ・ペルーズがキャンプを設置したボタニー湾北岸には、彼にちなんだ地名がつけられている。6週間の滞在中、イギリス人と友好を保った後、3月10日に出航したが、それ以来消息が途絶えた。
1791年フランス政府は捜索のため、ドントラキャストウの指揮下に更なる遠征を企てたが無益に終わった。革命中に英仏関係が悪化したので、この悲劇の責任をイギリスに帰する噂がフランスで広まった。この謎の解明には、ラ・ペルーズ艦隊がバヌアツ付近で難破したことが、デュモン・デュルヴィルによって確認された1828年を待たねばならない。一方で、革命政府は航海記録『ラ・ペルーズの世界周遊記 1-4巻』(Paris,1797)を出版した。この記録の資料的価値は今でも健在である。英語翻訳も1798年から1799年にかけて刊行された。また、匿名パンフレット 『ラ・ペルーズ最後の探検』 (Quimper,1797)は、1788年の2月17日にボタニー湾で死亡した、遠征隊の研究家ルスブール師のものであろう。
松田真・藤川隆男0403