Lang, John Thomas
ラング、ジョン・トマス
1876-1975
シドニー生まれ。
政治家、ニューサウスウェールズ首相(1925-1927、1930-1932)、労働運動指導者。Jack Langとも呼ばれる。
政治家として、1925-27年と1930-32年の2度に渡ってニューサウスウェールズ首相を務め、特に2度目の首相在任中には、大恐慌期のオーストラリア経済及び財政の再建に尽力した。また、労働運動の指導者としても有名である。
シドニーで、スコットランドからの移民で時計職人である父と、アイルランドからの移民である母との間に生まれる。父が事業に失敗したため生活は苦しかったが、このことがラングに働くことの大切さを学ばせたとされている。学校を中退し、いくつかの職を転々とした後、1894年に会計事務所に就職した。1896年に、シドニーの書店の経営者であるマクナマラの義理の娘、ヒルダと結婚した。
1899年、ラングは、シドニー郊外のオウバーンAuburnで不動産会社を共同で始めた。会社は、シドニーに通勤する労働者たちに住宅を供給することで成長し、ラングは地元ではよく知られた人物となった。1903年に労働党の支部の書記に就任し、次第に地方政治に関与するようになり、1913年にニューサウスウェールズ立法議会に議席を得た。
1916年に労働党が徴兵制の問題で分裂したことを契機に、党地方幹部会の書記に就任するというチャンスが巡ってきた。ラングは徴兵反対派とともに、連邦首相のヒューズや州首相のホルマンに対抗した。労働党が州政権に復帰した1920年からは大蔵大臣を2年務め、1923年には州労働党の党首に選出された。1925年にはニューサウスウェールズ首相(兼大蔵大臣)に就任、27年までの在任期間中には寡婦年金制度を導入するなど、社会福祉や労働環境などの分野で指導力を発揮し、革新主義者との評価が定着した。しかし、在任中の一時期、党幹部会の支持基盤が弱体化し、左派と連携したので、ラングはよりラディカルなイメージを強めることとなった。その後ラングは、党内基盤の確立には成功したが、労働党は1927年10月の選挙で敗北した。
1930年になると大恐慌の影響で、失業者の増加や国際収支の悪化などが深刻となったが、これに対しオーストラリアはデフレ政策という古典的な手法により対応しようとしていた。しかしラングは、同年7月にオットー・ニーマイアSir Otto Ernst Niemeyer率いるイングランド銀行の調査団が、公共支出の削減を柱とする改革案を政府に提示したのを機に、州政府だけでなく労働党の連邦政府の政策までも批判し、公共部門における雇用の拡大や公務員給与削減の見直しなど、財政支出の拡大を主張した。こうしたラングの主張を公約とした州労働党は、同年10月の選挙で勝利を収め、ラングはニューサウスウェールズ首相に返り咲いた。
1931年2月になると、政府借入金の金利削減、イギリスの対オーストラリア債権保有者に対する利息支払い延期などの内容を含む「ラング・プラン」を発表した。しかし、この計画が実行に移されると、労働党は分裂し、連邦の政権を失った。1932年に労働党を去ったライオンズが連邦首相に就任すると、政府はニューサウスウェールズ州の歳入を没収しようとした。ラングは、州財政に対する連邦の介入に抵抗したが、ゲイム総督により州首相を罷免された。ニューサウスウェールズでは選挙が行われ、ラング率いるニューサウスウェールズ労働党は保守系政党に敗北した。
その後もラングは、ニューサウスウェールズの党組織を支配し、連邦労働党は支持を拡大できなかった。1935年に、ジョン・カーティンが連邦労働党のリーダーとなると、翌年ニューサウスウェールズ労働党はラングのもとに再統一された。しかし、シドニーのラジオ局2KYを巡る対立をきっかけに、次第に指導力を弱めていった。1938年には『労働日報』Labor Dailyの経営権を、1939年には党の指導権を失い、1943年には党を追放された。
しかし、ラングの政治的な意欲は衰えず、オウバーンを地盤とする独自の「労働党」を組織、1946年には自ら連邦議会の議席を獲得した。ラングは、チフリー首相が進める移民政策の見直しや銀行国有化などを批判したが、結局1949年の選挙に敗北して議席を失った。
晩年のラングは、大恐慌と労働問題についての評論家として活躍し、1960年代後半には「民衆の英雄」として学校や大学などにおける講演活動で人気を博した。1971年には労働党への再加入が認められた。1975年9月27日、地元オウバーンの病院で亡くなった。
浅野敬一00