Lang, John Dunmore
ラング、ジョン・ダンモア
1799-1878
グレノック、スコットランド生まれ。
聖職者、政治家(共和主義者)。
ラングは、50年以上もの間、植民地内の問題に関して、多領域にわたって活動した。活動を始めた頃は保守的な聖職者であったが、後に急進的な共和主義者となった。オーストラリアにおける共和主義のあり方を考え、発展させた最初の人物であるといえよう。また、彼は選挙によって大統領を選ぶという方式まで念頭に置いていた。ラングは、共和主義を唱えるとともに、教育や移民政策にも力を入れた。
ラングは、小土地所有者で職人であった父ウィリアム・ラングと、メアリ・ダンモアの長子としてスコットランドのグレノックで生まれた。グラスゴー大学で学び、福音主義の影響を強く受けた。1820年に卒業し、同年、長老派の説教師となった。その後、ニューサウスウェールズに渡っていた弟から、植民地のモラルの低さ、それを改善するための聖職者の不足を訴える手紙を受け取り、1823年シドニーに渡った。シドニーでは長老派最高の牧師として指導者となった。当時の教会はあまり活動的ではなかったが、総督や有力者に協力を求め、その資金でスコッツ教会を建設した(1826年完成)。このように有力者の援助を受けることができたのは、ラングがまだ保守的であり、急進的な面を持っていなかったからだといえる。事実、ラングの嫌いなものは、有力者たちの嫌うものと共通していた。例えば、エマンシピストやアイリッシュ・カトリックがあげられる。特にカトリックに対する嫌悪は激しく、彼の宗派に対する偏狭さは悪名高かった。その不注意な言動から3回にわたって投獄されている。
ラングは、たびたび本国に戻ったり、世界各地へ旅行に出た。これによって、彼の政治思想は大きく変化していく。1830年代には主に本国に戻り、都市における極度の貧困を目の当たりにし、それに対する貴族たちの横柄な態度に批判的になった。この状態を改善するために、ラングは労働者やその家族をオーストラリアに移民させるというプランを作った。
これと対照的に、アメリカには非常に好印象を抱き、それを模倣しようとした。例えば、十分な雇用と賃金、豊かな食料、広い家をもった生活状況などである。特に、アメリカ政治のあり方には強い印象を受け、大統領制の導入には意欲的だった。この頃から共和主義への傾倒が見え始める。ラングは、オーストラリアにおいてイギリス政府が強い力をもっていることは、オーストラリアの堕落を招くとし、1845年頃には共和政の設計図を作っていたと言われる。1843年にラングは、ポートフィリップから立法評議会議員に当選し、このヴィジョンの実現のために精力的に活動した。さらに1859年から1869年にかけても、ニューサウスウェールズの下院議員を務めている。
ラングは共和制への移行や流刑制度の廃止、オーストラリア連邦の結成、本国からの自立を求めて、オーストラリアン・リーグを組織した。さらに、ポートフィリップ(ヴィクトリア)とモートン・ベイ(クィーンズランド)の、ニューサウスウェールズからの分離運動も支援した。彼の明確な反カトリシズムにかかわらず、この急進主義的傾向は多くのカトリック労働者の支持を集めた。ラングは生涯にわたって新聞を用いて政治活動をし、Colonist(1833-40)やColonial Observer(1841-44)、Press(1851)などの新聞を刊行した。
共和政以外にも、ラングは教育と移民を重要視した。1826年には小学校を設立し、さらに1832年にはオーストラリアン・カレッジを設立して、さまざまな教育の需要に応えるとともに、高等教育の意義を主張し、長老派独自のカリキュラムを組むなどの工夫をしている。また、教育一般に関しては非宗派教育を支持し、カトリック系の学校の弱体化をねらった。移民に関しては、移民計画を提案し、計画に従って多くの移民を入植させた。彼が導入した移民は、オーストラリアへの非熟練労働力の供給を目的とするというよりも、多くの職人や熟練労働者を含んでおり、シドニー最初のメカニックス・インスティチュートの核になる人材を提供した。移民問題でも反カトリックの姿勢を貫き、当時チザムがおこなっていた、カトリックの女性移民勧誘を激しく非難した。
ラングの急進主義、他者への容赦ない批判、非妥協的態度は、1842年にニューサウスウェールズの長老派の分裂をもたらし、20年にわたってこの分裂は解消されなかった。
山崎雅子1101