オーストラリア辞典
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Lalor, Peter

レイラー、ピーター


1827-1889
クィーンズ州、アイルランド生まれ。
ユリーカの反乱の指導者、政治家。


 レイラーは1827年、農業経営者の息子としてアイルランドのクィーンズ州に生まれた。彼の一家はイギリスの支配からのアイルランドの自由と、アイルランドの小作農の権利を求める運動の支持者であった。このような事情とアイルランドの飢饉が、レイラーの幼少時代に影を落とした。しかし、レイラーがこの種の運動に積極的に関わったという証拠はない。ダブリンのカーロー・カレッジで教育を受け、エンジニアとなった。アイルランドで飢饉が発生してから数年の後、多くの人がアイルランドを離れた。それにともないレイラーの兄弟のうち3人はアメリカへ移住したが、レイラーは兄弟のリチャードとともにゴールドラッシュに魅せられ、オーストラリアへと移住した。1852年10月、彼らはメルボルンに到着し、レイラーはメルボルン=ジロング間の鉄道の建設に従事した。1853年、レイラーは金の採掘のためにオヴンズに向かい、1854年初めにはバララットに移った。

 バララットでは金の採掘に免許が必要で、その取得には多額の許可料が課せられていた。政府の金鉱夫に対する不当な取り扱いに反対して、バララット改革連盟が組織され、レイラーは連盟の方針に多少の疑問を持っていたものの、その一員となった。1854年11月29日、連盟は彼らの要求に対する総督からの返答を聞くために、最初の大規模な集会を開いた。総督は鉱夫の不満に応えることは約束したが、ユリーカ・ホテル放火の疑いで投獄されている鉱夫を、釈放することは拒否した。これによって連盟は採掘免許を持っている鉱夫に、免許を焼き捨てることを求め、無免許のために逮捕された鉱夫のために、団結することを誓う決議を行った。レイラーは、この集会で初めて公の場に姿を現した。その後、政府軍と対立したバララット改革連盟は、ユリーカでバリケードを築き、レイラーはその指揮をとったが失敗し、左腕を失う重症を負った。

 やがてレイラーは反逆の罪を許され、1855年に立法評議会にバララットの代表として当選し、1856年に制定された新憲法のもとでも、バララットから立法議会に選出された。議会では金鉱夫の要求の実現に努める一方、複式投票制や保守的政策にも賛意を示した。金鉱夫がこれに不満を持つようになると、1859年にはサウス・グラントの選挙区に移り当選する。1868年の選挙では、サウス・グラントにおいて最高の得票数を得た。しかし、その後3年間、レイラーは個人的な仕事に傾倒し、水利事業や鉱山事業により利益を得た。1871年には落選したが、1874年の選挙では、再びサウス・グラントの議員として選ばれた。翌年、グラハム・ベリーの内閣で関税委員になった。その後郵政大臣を経て、1880年には下院の議長に就任した。1887年、レイラーは、娘と妻の死にともなって議長職を辞した。1889年レイラーは息子の自宅で死去した。

 藤岡真樹0901