Kingston, Charles Cameron
キングストン、チャールズ・キャメロン
1850-1908
アデレイド生まれ。
南オーストラリアの弁護士、政治家、植民地首相(1893-99)
もとは弁護士であったが、1881年に政治家となった。1893-99年には南オーストラリア植民地の首相となり、オーストラリア連邦の創設に貢献した。国内産業保護を重視した政策を行い、オーストラリアのもっとも著名な法律創案者の1人である。人々からは絶大な支持を得ていたが、1892年に政敵とのピストル決闘未遂で逮捕されるなど、様々な噂やスキャンダルを残している。
1850年にアデレイドで技師の息子として生まれたキングストンは、1873年に法廷弁護士となり、1888年には勅撰弁護士となっている。彼は身長が183センチあり、若い頃は優れたスポーツ選手であった。生涯を通じての活発な政治活動を支えたのは、この強靱な肉体と攻撃的な性格であった。
1881年に南オーストラリア植民地の下院議員となり、1900年に辞職するまで6期連続で西アデレイド選挙区で当選した。プレイフォド政府に司法長官として協力し、国内産業保護のための関税法や議員歳費の導入に関して重要な役割を担った。南オーストラリア植民地の代表として、1888年にシドニーで開催されたオーストラレイジアン会議に参加しており、中国系移民問題に反対する白人オーストラリアの擁護者であった。
1890年頃からオーストラリアは不況に陥り、この逆境の中でキングストンは1893年に南オーストラリア植民地の首相となった。キングストン政府は、南オーストラリア植民地でもっとも長期間存続した政権であり、1899年12月まで続いた。彼の政府は、多数の新政策を他の植民地政府に先駆けて南オーストラリア植民地に導入した。1894年に婦人参政権が南オーストラリアではじめて承認され、その後1908年までにオーストラリアの全土で婦人参政権が認められた。またオーストラリアで最初の労働調停仲裁制度を1894年に導入し、雇用者と労働者の間の争議を調停する制度として注目を浴びた。この他にも工場法や高い保護関税の制定、植民地銀行の設立などを行い、彼が作った多くの法案は、その後の経済・産業活動に大きな影響をもたらした。
また同時にキングストンはオーストラリアに連邦制を導入するために積極的に活動した。南オーストラリア植民地で連邦運動を主導したキングストンらは、1891年のシドニーの憲法制定会議において連邦憲法の草案を提出した。1897年の連邦会議では議長を務め、連邦に州際労働調停仲裁権限を与えることに大きな役割を果たした。また1900年には、ロンドンでイギリス政府とオーストラリア連邦憲法をめぐる交渉にあたり、その議会通過に大きく貢献した。
1901年1月にオーストラリア連邦が発足し、初代首相にはニューサウスウェールズの保護貿易派で、連邦運動の指導者であったエドモンド・バートンが就任した。キングストンは、1901年の連邦議会選挙で当選し、連邦内閣において1901-1903年に通商・関税大臣を務めた。一貫して保護貿易派であり、連邦レヴェルでの最初の関税法の導入や、労働調停仲裁法の制定に尽力した。国内産業の発展と保護貿易制度が、国家建設には不可欠なものと考えており、労働者階級の保護を重視した多数の法案を提出した。
彼の国内産業保護政策は人々の支持を得たが、攻撃的な政治活動は議会内で反発を招いた。また健康状態の悪化もあり、キングストンは1903年6月に大臣職を辞任した。その後も、アデレイドの連邦下院議席を対立候補者無しで維持し、1904年に発足した最初の労働党政府にも招聘された。しかしながら、健康上の理由から、徐々に政治活動を続けることが困難となり、1908年5月に脳梗塞で死亡した。国葬が行われ、アデレイドには彼の彫像が建立された。
キングストンは、南オーストラリア植民地の政治家としてだけでなく、連邦運動を主導するなど20年以上活発に政治活動を行い、オーストラリア連邦に様々な新政策を導入した人物として知られている。保護貿易主義に基づいたその政治活動は、多くの人々から支持を得ており、一時は連邦首相候補とまで言われた。
菅原潤哉00