オーストラリア辞典
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Kingsford Smith, Charles Edward

キングスフォード=スミス(キングズフォド=スミス)、チャールズ・エドワード


1897-1935
ブリスベン生まれ。
航空機操縦士


 1897年2月9日、ブリスベンで、銀行家のウィリアム・チャールズ・スミスの5男として生まれる。不動産業を始めた父親の仕事の関係でカナダへ渡り、カナダのバンクーバーで、オーストラリアに帰ってからはシドニーのセント・アンドルーズ聖歌学校で学んだ。さらにシドニー技術高等学校で教育を受けた後、16歳で植民地精糖会社に就職した。

 1915年2月にオーストラリア帝国軍に登録され、工兵としてガリポリに出征し、エジプトとフランスで連絡騎兵として任務にあたった。1916年10月、軍曹身分でオーストラリア空軍に転属になった。イギリスでの訓練の後、翌年3月にはイギリス空軍へ少尉として転属して航空将校に任命され、6月にはフランスに赴任した。スミスはフランスで戦果を挙げ、表彰された。中尉に昇進してからは、イギリス空軍の教練官に就任した。

 戦後、友人のサイリル・マドックスと航空会社を設立してイギリスで遊覧飛行の仕事を始めた。航空輸送業に将来性を認めたスミスは、1924年に同僚パイロットのキース・アンダーソンと協力関係を築いた。彼らは2機の飛行機を購入して輸送業を請け負い、1927年にはオーストラリアで州間の飛行業務を行った。アデレイド=パース間の郵便飛行業務の落札に失敗した後、彼らは一連の重要な公開演技飛行を開始した。

 1927年6月の最初の飛行で、キングスフォード=スミスとこの時までに同僚となっていたアルムUlmは、10日と5時間でオーストラリア1周飛行を達成した。最小限度の運航支援で行われた飛行としては、注目すべきものであった。さらにスミスは、フォッカー社製の3発機「サザンクロス号」で、アルムとアメリカ人乗組員2人とともに、1928年3月31日カリフォルニア州オークランドから離陸、途中ハワイ、スヴァを経由してブリスベンに至る歴史的な横断飛行を飛行時間83時間38分で達成し、その後も事故を乗り越えて数々の記録的な飛行を成し遂げた。1930年にはオーストラリア・ナショナル航空 Austaralian National Airways を設立したが、冒険飛行も継続し、イングランド=オーストラリア間の飛行記録などをつくった。

 彼は世界的な有名人になった。1929年に離婚し、1930年12月10日にメアリ・ポウェルと再婚。少し後、エリック・キャンベルのニュー・ガードに加わり、名誉航空指揮官に任命された。彼の航空会社の将来も輝いているように思われた。

 1932年に飛行機操縦の業績により騎士に叙されたが、多くの事業に失敗し、健康状態も悪化していた。1933年の時点で、ようやく見通しが明るくなった。9月に船でイギリスに渡った後、10月に新しい冒険旅行に成功した。スミスはロンドンから西オーストラリアのウィンダムまで、7日間で単独飛行を成し遂げたのである。この偉業の後、彼はオーストラリア政府から3,000ポンドを与えられ、ヴァキューム・オイル会社の航空機操縦顧問に任命された。

 スミスは38歳になっても飛ぶことへの情熱を失わず、さらなる記録をうち立てるために、イギリスからオーストラリアへ向かって1935年11月6日に飛び立った。これが彼の最後の冒険になった。飛行機と乗員2人は発見されなかったが、おそらく夜間シンガポールへ飛行中、ビルマの沖合で海に墜落したものと思われる。妻と子供に12,875ポンドに相当する財産を残した。

 キングスフォード=スミスはオーストラリアの20ドル札に採用され、シドニーの国際空港も彼にちなんで名づけられた。

 石光崇昭0901