オーストラリア辞典
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King, Philip Gidley

キング、フィリップ・ギドリー


1808-1877
ロンセストン、コーンウォール、イングランド生まれ。
ニューサウスウェールズ第3代総督(1800-1806)


 オーストラリア流刑の第1船団に将校として参加した後、ノーフォーク島の指揮官をへて、1800年から1806年にニューサウスウェールズ総督を務める。ラム酒の貿易などをめぐりニューサウスウェールズ軍団と対立した。

 服地商の父と法律家の家系の母から生まれ、7歳でワイト島の海軍学校に入学した。1770年に海軍に入り、5年間西インドで勤務後、1775年アメリカ海域に移り、アメリカ独立戦争に従軍した。1780年、本国に戻り、アーサー・フィリップのもとで勤務する。アーサー・フィリップが植民地建設の指揮官に任命されたとき、第1船団の旗艦シリウス号の中尉となった。ボタニー湾到着直後、総督フィリップの命令で、ノーフォーク島植民に出発し、1788年3月6日に島に上陸後、2年間入植地を統治した。1790年から翌年にかけてロンドンに戻り、植民地の状況を報告したが、このときアンナ・ジョゼファ・クームと結婚した。1791年末ノーフォーク島に帰還後、人口約1,000人の島が1794年までには穀物を自給できるようにした。しかし、1796年には病気のため本国に帰国した。

 帰国後、ハンター総督の後任となることを約束され、1799年にはイングランドを再び出発、1800年ニューサウスウェールズ総督に就任した(正式の通知は1802年)。キングは、着任後まず、蒸留酒の輸入と飲酒の規制を試みた。そのため、公営の醸造所を建設し、私的な酒の醸造を禁じた。また、ニューサウスウェールズ軍団の将校による独占の弊害を除くために、キングは公営の倉庫を設置し、入植者たちが必要とする商品を安価に提供した。賃金や物価、労働時間なども統制しようとしたが、成功しなかった。さらに公有地の無償交付や穀物の買い上げ、家畜の分配などにより、中小農民を援助した。これにより多くの農民は政府の配給への依存から解放され、配給に依存する人口は、1800年の72%から、1806年の32%に減少した。キングはまた、石炭開発や捕鯨の振興、亜麻の栽培などを試みた。フランスの進出への懸念から、植民地の拡大にも取り組み、ポート・ダルリンプルやダーウェント川への入植を行った。エマンシピストについては、その登用を進めたが、1804年にはアイルランド系囚人を中心とするキャッスル・ヒルの反乱を経験した。

 キングは蒸留酒の輸入に5%の税を課し、これによって女子の孤児院を建設した。アボリジナルを、「真の土地所有者」だと考え、友好関係を保とうとしたが、先住民を移り気で、残酷であるとも考えており、積極的な対応は行わなかった。キングの統治における最大の問題は、ニューサウスウェールズ軍団との軋轢であり、ジョン・マッカーサーなどと激しく対立したが、本国政府の支持は得られず、キングは休職を申し出た。1806年8月ようやくそれが認められたが、体調を悪化させ、1807年になってようやくイングランドに帰国した。キングはすぐさま年金支給を要請したが、1808年9月3日に死亡した。

 息子の1人パーカ・キングは、オーストラリアの海岸線の測量に貢献し、娘の1人アンナ・マリアはハンニバル・マッカーサーと結婚した。

 藤川隆男00