Kidman, Sidney
キッドマン、シドニー
1857-1935
アデレイド近郊のアセルストンAthelstone、南オーストラリア生まれ。
放牧家。
両親はともにイングランド生まれであり、1848年にオーストラリアに移民した。農夫であった彼の父はキッドマンが生後6ヵ月の時に亡くなった。キッドマンはノーウッドのパブリック・スクールで教育を受けたが、勤勉に貯蓄して購入した片目の馬に乗って、5シリングを持って家を出たという。兄と出会い、西部ニューサウスウェールズで働きながら、彼はアボリジナルと親しくなり、様々な技術を学んだが、アボリジナルを利用することも同時に学んだ。その後、キッドマンは約1年間マウント・ギップス牧場で雑役夫として働いた。解雇された後は、ジャーマン・チャーリーの近隣のバラックで牧童として働いた。ここで1組の牛車隊を買うのに十分なお金を蓄えた。これによって自立し、すぐに人を雇用するようになった。
キッドマンは遠く離れた入植地の間の荷物の輸送を請け負った。また、アデレイドの市場に馬と牛の群を運んだ。1870年代初頭のコーバーでの銅の発見後に、彼は食肉屋を開設し、十分な資本を蓄えた。1878年には祖父から400ポンドを相続し、その資金で商売に成功した。ニューサウスウェールズ西部と西オーストラリアで、乗合馬車のビジネスを確立し、家畜や馬を売買して資本を増やした。さらに、ブロークン・ヒルで大規模に食肉処理を行っている彼の兄のサックビルに肉牛を売って、資本をさらに拡大した。
1886年にキッドマンは、アリス・スプリングズの南西部にあるオーウェン・スプリングズを取得したのを始めとして、徐々に多くの大牧場を取得し、第1次世界大戦までにはイングランドよりも広大でヴィクトリア州に匹敵するほどの土地を管理するようになった。彼の成功の秘密は、主にその経営の才能にあり、脱税によってあげた利益も莫大な額にのぼった。
キッドマンは長身で愛想の良い人物であった。彼はどこででも眠ることができ、アルコールやタバコなどにも手を出さなかった。今日まで彼の吝嗇ぶりは伝わっているが、実際は寛容な雇用者であるという意見もあり、多くの施設に施しを行う人物であった。吝嗇であるという評判は、無駄に対する憎悪に由来している。晩年のキッドマンは耳が聞こえなくなり、リューマチを患った。しかし、1935年にアデレイドで亡くなるまで、その他の面では健康であった。300,000ポンドに達する彼の遺産が遺族に残されたが、チャリティーに寄付された額も多い。彼は、1890年代の恐慌と1901年の干ばつを生き延び、第1次世界大戦時には戦闘機を政府に寄付して、「牧牛王」Cattle Kingと呼ばれた。
新林秀亮0901