オーストラリア辞典
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Kelly, Edward (Ned)

ケリー、エドワード (ネッド)


1855-1880
ベベリッジ、ヴィクトリア生まれ。
ブッシュレンジャー。


 19世紀後半のオーストラリアで最も有名なブッシュレンジャーである。窃盗、強盗、殺人に至る数々の悪行を犯し処刑されたが、不思議と民衆には人気があり、彼の生きざまは多くの小説、演劇、民謡、映画、絵画などに取り上げられた。

 アイルランド系の両親の長男として生まれた。父親の死後、権威に対し常に対峙している母方のクイン一族の中で育った。一族は自分たちを警察の迫害の犠牲者だと考えており、ケリーは幼少のころから警察への不信を心に抱き、手先が器用なことから窃盗に手を染めた。14歳の時初めて起訴され、15歳の時、3度目の逮捕で有罪宣告された。16歳で釈放された後、馬の窃盗で再度起訴され、有罪判決を受けた。1874年、19歳の時釈放された。ケリーは犯罪行為から足を洗おうとし、材木市場で働いていたが、1876年に母の再婚相手ジョージ・キングが企てた馬の窃盗に加担して、さらに大規模な家畜窃盗に手を広げた。警察のクイン一族に対する目は一層厳しくなり、特にケリーは主要なターゲットとされた。1878年の4月、騎馬警官のアレクサンダー・フィッツパトリックの来訪が、ケリーの爆発の引き金となった。ケリーとその母エレン、弟のダンたちが巡査を射撃しようとしたという疑いを掛けられたのである。母親は逮捕され、兄弟は姿を消した。兄弟は、母親の起訴の却下を条件に自首することを申し出たが、母親は有罪判決を受けた。

 母親の裁判後、2組の警官隊がウォンバット地区でスティーヴ・ハート、ジョー・バイアンという2人の仲間を連れたケリー一味を捜索していたところ、ストリンギーバーク・クリークで遭遇し銃撃戦となり、3人の警官が死亡した。ケリー一味には500ポンドの懸賞金が掛けられたが、彼らは捜査の目をかいくぐり、1878年11月初頭、ヴィクトリア植民地のユーロウアEuroaで銀行強盗をはたらく。翌年2月にはニューサウスウェールズのジェリルデリーで再び銀行に押し入る。懸賞金は8,000ポンドまで跳ね上がったが、捜査の歯車がかみ合わず、またヴィクトリア植民地北東部の民衆のケリー一味への支援もあり、彼らは姿を消したように思われた。

 1880年グレンローアンで起こった一味の逮捕劇は複雑なものだった。バイアンの友人のアーロン・シェリットに警察のスパイではないかという容疑がかかり、バイアンの手で彼は殺された。この殺人をきっかけにベナラにある本部から警察が列車で向かってきた。ケリー一味は列車を脱線させて鉄道交通網を麻痺させ、警察の追跡から逃れようとしたが、失敗に終わった。ケリー一味はホテルで包囲され、バイアンは射殺され、弟のダンとハートは警察がホテルに火を放ち焼死、ネッド・ケリーは捕まった。死刑執行猶予を求める運動が起こったが、1880年11月、絞首刑に処せられ25歳でその短い生涯を終えた。最近、この時処刑されたのはダンで、ケリーは生きながらえたという説も出されている。

 見国祐也00