irrigation
灌漑
オーストラリアにおける農業生産のための人工的な灌漑は、1870年代から行われるようになった。当時、北部ヴィクトリアでは、農民は乾期にも収穫を確保するために、河川の水を農地に汲み上げていた。
1880年代になると、政府が支援する灌漑事業が始まった。1877年から81年まで続いた旱ばつのために、ヴィクトリアとニューサウスウェールズの政府は、保水と灌漑に関する調査委員会を1884年に設置した。ヴィクトリアでは土地・公共事業担当の大臣であったアルフレッド・ディーキンが委員長となった。彼はインドとアメリカ合衆国における灌漑の方法を調査し、彼の報告が1886年のヴィクトリアの灌漑法の基本となった。この法律によって全ての水路が政府の所有になり、配水料の徴収が地方の水利組合に委託された。地方の水利組合を介したこのような事業が、ゴールバーン川、キャンパスピー川、ロドン川などで発展したが、ヴィクトリアの最初の本格的な灌漑事業は、ミルデューラにおいて1887年に始まった。ディーキンが潅漑用施設を作るために、カリフォルニアから呼び寄せたジョージとウイリアムのチャフィー兄弟は、20,000ヘクタールの土地を与えられた。南オーストラリア政府との契約で、チャフィー兄弟はレンマークにも灌漑施設を創立し、チャフィー会社を作った。しかし、1895年にこの会社は、川の水不足と収穫物の輸送の失敗で破産に追い込まれている。
その他のほとんどの灌漑計画は失敗であったが、その原因は水の需要がピークになるのは夏期であるのに、その時は河川の水位が最も低いという点にあった。変わりやすい河川の水量に対する解決法は、川に堰を建設することであった。その最初のものはゴールバーン川に1891年に建設された。堰の建設が進むにつれヴィクトリアの水利組合は経営困難に陥った。灌漑事業の成功を確実なものにするためには、大規模な資本の投下が必要であり、それは政府にしかできないことだった。そこでヴィクトリア政府は、1905年に設立した河川水利委員会を通じて、様々な水利事業に対する直接の指導、統制を行うことになった。委員会は貯水池の建設など、精力的な事業を開始し、水力発電能力を持つダムも含め、多くの貯水池が建設された。1980年代のはじめまでにヴィクトリアでは、577,000ヘクタールの土地に水が引かれることになった。
ニューサウスウェールズにおいても、ヴィクトリアと同様、政府資金による灌漑事業が発達した。ウェントワース、ヘイ、バルラナルドの市議会は、1884年から87年に灌漑調査を行った後、1890年代初期に水利組合の権限を与えられた。1896年には政府が全ての水路の所有権を獲得して、1913年には水資源保存・治水委員会を設立した。この委員会を通じて、政府はマランビジー川とマリー川沿いの灌漑事業に対する直接の指揮権を掌握した。1980年までの州による治水地域はオーストラリア最大となり、746,000ヘクタールに達した。マランビジー川沿いの地域がその37%を占めていた。スノーウィー・マウンテンズの水力発電所からマランビジー川に流入する水は、1960年代からのリヴェリーナ地方における水利事業の発展にとって重要なものとなった。マランビジー川沿いとニューサウスウェールズのその他の川沿いに作られた多くの貯水池は、洪水防止、都市の水の供給、また観光など複数の目的に利用されている。
南オーストラリアでは、レンマークでチャフィーにより灌漑事業が始められたのだが、1980年代までには80,000ヘクタールが灌漑され、そのほとんどはマリー川から取水していた。マウント・ガンビア地方では品質のよい地下水から取水する方法を採用していた。クィーンズランドでは1922年に最初の灌漑法が制定され、この法律のもとに1923年ドーソン川のシオドー近辺で、最初の灌漑事業が始まった。1980年までに、クィーンズランド州では255,000ヘクタール程度が灌漑されるようになった。その半分の地域では、地下水が利用された。ほとんどの事業は1947年の治水・配水委員会の設立以降に発展したものである。
西オーストラリア、タスマニア、ノーザンテリトリーでは、灌漑は他の州と比較するとあまり発展しなかった。1980年までに西オーストラリアは25,000ヘクタールを灌漑地にした。そのほとんどはバンブリーBunburyとコリーCollie地方にあった。加えて、熱帯地方でも灌漑が試みられている。最も有名なものは、不運にも失敗したオード川計画であった。タスマニアは、他に先駆けて、水力発電に川を利用したが、1980年までに灌漑されたのは23,000ヘクタールだけである。そのほとんどは私有の灌漑施設であった。タスマニアは雨量も多く、オーストラリア本島よりも灌漑の必要性は認識されなかったと言える。ノーザンテリトリーでは地下水、河川水の両方を利用した数ヵ所の小規模の灌漑施設が作られた。
1960年代から灌漑に関して賛否両論が現れるようになった。そのころまでにはオーストラリアの貯水の5分の4が灌漑に使われるようになった。残りが都市への供給と工業用に使われた。経済学者の中には、灌漑の拡大に反対し、その利益よりコストの方が遥かに上回ると主張するものがいた。その意見は次のようなものである。オーストラリアでは、河川の水の供給が不確実なため、安定した灌漑水を保証するためには大容量のダムの建設が必要である。これには巨大な資本の投下が必要であるので、政府がコストを負担しなければ、灌漑の実効性はうすい。灌漑施設設置者に対する大きな補助金の交付も考えなければならない。また批判者は次のようにも論じた。灌漑農地の生産物の価値は、灌漑設備に要した費用に比べると妥当であるとは言えない。その資金を乾地農業に投入すれば、もっと有効であっただろう。オーストラリアのいわゆる水飢饉というものは錯覚であり、もしこの巨大な資金を不経済な灌漑事業などに投入しなかったら、都市や工業発展のために利用できたであろう。
灌漑賛成者は、建設の費用は、もしそれによって生産が増加し、州の収入が年間総コストを上回るのなら妥当と考えられるとして、一般的には、そういうことが起こっていると主張した。灌漑は国家の繁栄に寄与し、さらに、灌漑によって人口の地方への分散や、稠密植民が可能になったと主張した。また輸入農産物(綿花、菜種、米、かんきつ類、ぶどうなど)への国の依存度を減じ、さらには、厳しい旱魃の時期にも安定した食料の生産が可能となり、その貯水によリ、内陸部にも重要なレクリエーションや観光地としての魅力をもたらしたと論じた。
効用があったのは確かではあるが、灌漑が重大な問題となっている地域もある。国全体の灌漑地の70%があるマリー川・ダーリング川流域では、土壌の塩化を引き起こし大問題となっている。河川の塩分の増加は、下流の農民や、アデレイドの水の供給に対する重大な脅威となった。市場から遠く離れていることや様々な技術的問題が灌漑の可能性を低めている場合もある。オード川の計画はこれが原因で挫折した。
このような失敗にもかかわらず、灌漑はオーストラリア農業にとって重要であった。1980年代の初期には農産物の3分の1、牧畜産業の8分の1が灌漑に頼っていた。その発展は、農民や農村地方から選ばれた政治家のなかでは一種の信仰のようなものとなった。世論は一般的に言ってそれに対して疑問をもたなかった。なぜなら、水があれば豊富な作物を産するであろう広大な渇いた内陸地があるという考えが、ながくオーストラリア人の心情を捉えていたからである。実際、その考えは国の資源に対する人々の感覚の基本となっていたので、灌漑が大きな問題を起こしているとは人々は信じなかったのである。しかし1990年代に入ると、河川の汚染は誰の目にも明らかになり、塩害の防止、マリー川とダーリング川の環境の保全は国家的な課題となっている。
安井倫子00