Interregnum in NSW
ニューサウスウェールズの政権空白期間(1792-95)
1792年12月、ニューサウスウェールズ流刑植民地は、総督による民政から軍政へと移行した。1795年9月に第2代の総督ジョン・ハンターが到着するまで軍政は続いた。アーサー・フィリップ総督は植民地の統治を5年間行った後、1792年に病気療養のためイギリスに帰国する事になった。フランシス・グロースFrancis Grose陸軍少佐がフィリップ総督の代わりを務めたが、1794年に彼もまた病気を理由に植民地からイギリスへと去っていった。
フランシス・グロース(1758-1814)はアメリカ独立戦争に従軍し、負傷した。イギリスでのニューサウスウェールズ軍団結成に貢献し、1792年に植民地に到着した。彼は副総督でもあった。軍の将校らに対する彼の優遇によって、将校は植民地において有力な地位を占めることができた。さらに彼らは政府から無償で土地を手に入れ、グロースの在任中に私企業を設立した。将校らの影響力は、特にラム酒貿易と、それに対し彼らが行使した独占権に関連があった。グロース自身がそのような慣習から利益を得ているという証拠は無かったが、公的な農業は衰退し、最終的に植民地当局は財政難に陥った。
グロースを引き継いだのはウィリアム・パターソンWilliam Paterson(1755-1810)であった。ニューサウスウェールズ軍団の指揮官であったパターソンは、1791年に植民地に到着し一時ノーフォーク島で勤務していた。パターソンはスコットランド生まれで、広範囲に渡る植物学への関心を持っていたが、陸軍に入隊した。植民地を統治した9ヵ月の間、パターソンはグロースの政策を継続した。1795年にハンターが到着した後、イギリスへと去ったが、1799年ラム酒取り引きの調査を名目として植民地に戻った。1801年にパターソンは副総督に任命され、1804年からはヴァンディーメンズランドのポート・ダルリンプルの植民地を統治した。1808年のラム酒の反乱の後、ラクラン・マクウォリー総督が到着するまで総督代理の座に就き、1810年イギリスへ向かい出航したが、帰国途中に死亡した。
見国裕也0501