inland exploration of Australia
オーストラリア内陸探検
1788年にボタニー湾入植地が築かれると、直ちに周辺の探検が行われ、それから10年以内に、北はニューカッスル、南はゴールバーン、西はグレイト・ディヴァイディング・レインジGreat Dividing Rangeの一部をなすブルー・マウンテンズまでの地域が踏破される。
1812年の旱魃の後、翌13年にシドニー政府の支援の下、グレゴリー・ブラックスランド、ウィリアム・ローソン、ウィリアム・チャールズ・ウェントワースの一行が、牧草地を求めてブルー・マウンテンズ越えを果たす。彼らに続いて山脈を越えたのが、測量副長官だったジョージ・エヴァンズGeorge Evansで、平原地帯にまで足を伸ばし、西方に流れるラクラン川Lachlanとマクウォリー川を発見する。
これらの川はどこに流れていくのか、内陸の大湖につながっているのか、あるいは大河となって西岸または南岸の海に行き着くのか、この「川の謎」を解くことが、測量長官ジョン・オクスリーが1817-18年に行った探検の目的である。18年の2回目の探検では、バサーストを出発してマクウォリー川付近の湿地帯に到達した後、復路カースルレイ川Castlereagh、リヴァプール平原、ピール川Peelなどを発見し、ヘイスティングズ川Hastingsを通過してポート・マクウォリーに着くが、「内海」=内陸湖の存在は確認できずに終わる。
1824 年には、総督トマス・ブリスベンが、モナロウ地区から南に向けて探検隊を派遣し、牧場主のハミルトン・ヒュームとウィリアム・ホヴェルが率いる一行は、マランビジー川Murrumbidgeeとヒューム川Hume(後にマリー川と改名される)を通過して、ポートフィリップ湾に到達する。これにより、畜群を追って遠距離を陸行するオーヴァーランディングが盛んになり、また、ポートフィリップ地区(後のヴィクトリア)への入植も進んでいく。1827年には、アラン・カニンガムAllan Cunninghamが、リヴァプール平原から北に進み、途中クィーンズランド南部、ブリスベン近くにあるダーリングダウンズを通ってモートン・ベイに出る。
1828-30年にチャールズ・スタートが行った探検で、ようやく「川の謎」が解明されることになる。第1回探検でダーリング川を発見した後、翌29年には南に下り、マランビジー川、ラクラン川を経て、ダーリング、マリー両河の合流点に到達し、さらに下ってマリー川河口に出る。このように「内海」も大陸を2分する大河も存在しなかったが、この後、南オーストラリアへの入植およびオーヴァーランディングが盛んになる。スタートは、後の探検で、南オーストラリアの北部にあるスタート砂漠Sturts Stony Desertを発見している。
これらの他に、当時活躍した探検家として、1836年にスタートの後に続いてマリー=マランビジー水系を明らかにしたトマス・ミッチェル、1839年にヴィクトリアのギップスランドを踏破したアンガス・マクミランAngus McMillan、同年西オーストラリアの海岸部をシャーク湾Shark Bayからノースウェスト岬Northwest Capeまで調査したジョージ・グレイ、1840年にオーストラリア最高峰のコジアスコウ山を発見・命名したポール・ストレズレキーなどが挙げられる。
大陸横断を最初に果たしたのは、エドワード・ジョン・エアである。1840年にアデレイドを出発し、当初は北に向かっていたが、翌年計画を変更し、ジョン・バクスターJohn Baxterと3人のアボリジナルとともにファウラズ湾Fowler's Bayから西にナラボー平原Nullarbor Plainを進む。途中ユークラで、同行のアボリジナル2人がバクスタを殺害し糧食を盗んで逃げるアクシデントに遭ったが、残ったアボリジナルのウィリーと旅を続け、西オーストラリアのエスプランス付近でフランスの捕鯨船と出会って糧食の補給をした後、アルバニーに到達する。
フリードリク・ヴィルヘルム・ルードヴィック・ライカートは、北寄りのコースで大陸を斜めに横断を成し遂げた探検家で、1844年にダーリング・ダウンズを発ち、カーペンタリア湾沿岸を通過して、翌年末にダーウィンの東にあるポート・エシングトンに到る。1848 年には、さらに西に西オーストラリアのスワン川をめざしたが、途中行方不明になる。
この2人とは逆に、西から東へ大陸を横断した最初の探検家は、後に西オーストラリア植民地初代首相となるジョン・フォレストで、1870年にパースを出発し、ナラボー平原を横切りポート・アガスタに着く。フォレストは、1874年には、西オーストラリアのジェラルトンから大陸中央部を通ってニューサウスウェールズのピーク・ヒルに到る横断にも成功している。その他の大陸横断として、1873-74年にノーザンテリトリーのアリススプリングズから西オーストラリアのロウバンまで踏破したピーター・エジャートン・ウォーバトンと、1875-76年に東から西(南オーストラリアのベルタナからパース)と西から東の両方向の横断を敢行したアーネスト・ジャイルズの例がある。
一方、大陸縦断を最初に果たしたのは、ロバート・オハラ・バークとウィリアム・ウィルズである。1860年、ヴィクトリア植民地王立協会Royal Society of Victoriaが後援する探検隊を率いて、メルボルンからクーパーズ・クリークCooper's Creekまで来ると、本隊をそこに残して少人数でさらに北上し、翌年初めにカーペンタリア湾に到達する。しかし、クーパーズ・クリークに戻ると、すでに本隊は立ち去っており、そのため餓死するという悲劇に見舞われる。次に大陸縦断に成功したのは、南オーストラリアの測量官だったジョン・マクダウアル・スチュアートJohn McDouall Stuartで、1860年と61年の2度の試みが失敗に終わった後、翌62年、3度目の挑戦でアデレイドからダーウィンまで踏破する。スチュアートが辿ったコースは、後にオーストラリアとヨーロッパを結ぶ大陸縦断電信線 (1872年完成)の敷設ルートとなる。
数多くのパイオニアたち、探検家のみならず、牧場主(スクオッター)や家畜追い人などの活動により、1870年代末までには、オーストラリア内陸の地理は、おおまかながらもほぼ全容が明らかになった。
宮崎章00