Hume, Hamilton
ヒューム、ハミルトン
1797-1873
パラマッタ、ニューサウスウェールズ生まれ。
探検家。
1820年代にニューサウスウェールズ植民地政府が奨励していた、内陸部やそこを流れる河川の経路を探るための探検において、カニンガムやスタートとともによく知られた人物である。特に知られているのは、1824年から翌年にかけてウィリアム・ホヴェルと行ったポートフィリップ湾への探検である。
4人兄弟の長男として生まれたハミルトンは、教養のある母親から教育を受けた。 1812年に、ヒューム一家はアッピンAppinへと移り住むことになる。 17歳の時ヒュームは、弟のジョンやアボリジナルの少年と初めての探検旅行を行った。その後1818年に、マクウォリー総督の命によりチャールズ・スロズビー、ジェームズ・ミーアンを伴ってバサースト湖やゴールバーン平原の踏査、発見に成功する。翌年にはジョン・オクスリー、ミーアンとともにジャーヴィス・ベイへと向かった。 1821年あるいは22年にヒュームは、義理の兄弟であるジョージ・バーバー、ブロートンをともないヤス平原を発見する。そして1822年にはジョンストン大尉、アレクサンダー・ベリーとともにクライド川に到達し、その上流域を踏査した。この働きによりヒュームは300エーカーの土地を得て、最初の家を建てた。
ブリズベン総督の命によりハミルトンは、ウィリアム・ホヴェルとともにスペンサー湾への探検をすることになる。ホヴェルはイングランド出身の船長で、ハミルトンより11歳年長であったが、未開地や内陸の探検の経験はほとんどなかった。 1824年10月17日アッピンのハミルトンの家を出発し、ガンニングに拠点を置くとさらに西方に向かった。そしてポートフィリップ湾のコライオ・ベイに到達し、そこをウェスタンポートだと考え引き返した。この探検の途次に、最初発見者の名を冠せてヒューム川と呼ばれたマリー川とその支流、肥沃で農業に適した土地を発見し、1825年1月18日にガンニングに帰還する。この探検によりハミルトンは1,200エーカーの土地を手に入れ、エリザベス・リッチモンドと結婚したが、後年探検の手柄や主導権などをめぐって、ハミルトンとホヴェルとの間に対立が起こることになる。
その後もハミルトンはチャールズ・スタートにつき従うかたちでダーリング川への探検や、ブルー・マウンテンズ横断を行うが、彼の健康は、先のホヴェルとの過酷な探検のため損なわれていた。またその妻や将来について考えなければならなかった。ハミルトンは1829年にはヤス平原に移り住む。ハミルトン夫妻の間には子はなかったが、その甥のフランシス・ヒュームが彼の農場経営の多くを引き継いだ。彼は伯父ハミルトンとともにメリノ種の種畜の繁殖に乗り出している。 1860年には、王立地理協会(ロイヤル・ジオグラフィカル・ソサエティ)の特別会員に選ばれた。また治安判事となったヒュームは、その死の直前までこの職務を続けた。国教徒ととして、セント・クレメンツ、ヤスの社会事業団体や、その他の団体の設立理事を務めた。 1873年4月19日、ヤスのクーマ・コテージで亡くなった。妻エリザベスはその13年後亡くなり、2人はともにヤスの共同墓地に埋葬されている。また、2人の肖像画はシドニー州立図書館に付属するのミッチェル・ライブラリーにある。
中村武司00