オーストラリア辞典
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Hughes, William Morris

ヒューズ、ウィリアム・モリス


1862-1952
ロンドン生まれ。
政治家、連邦首相(1915-1923)。


 第1次世界大戦から戦後体制確立期に首相を勤めた。 1901年から1952年まで半世紀以上、下院議員として終始激烈な姿勢で政治活動を行った。第1次世界大戦中には、ヨーロッパをめぐってオーストラリア兵を激励し、その小柄な体格から「リトル・ディガー」(小さな兵士)の愛称で人気を博した。

 両親ともにウェールズ出身であったヒューズは、ロンドンとウェールズで教育を受け、12歳で小学校教師となるが、22歳の時オーストラリアに移住した。しばらくは職を転々とし、シドニーに落ち着いた後、労働運動に関係し政治活動を始めた。港湾労働者組合などに積極的に参加し、1894年、ニューサウスウェールズ下院議員に当選した。連邦発足にともないウェスト・シドニー地区から労働党所属の連邦下院議員に選出された。 1903年には弁護士資格を取得し、同年成立したワトソン労働党政権で入閣し、労働党の有力議員となっていった。

 第1次世界大戦が始まると、ヒューズは持ち前の情熱で、連邦の権限強化などの戦時体制の確立に力を尽くし、1915年、フィッシャーを継いで労働党党首、首相となった。翌年イギリスに渡ったヒューズは、戦争を鼓舞する演説を各地で行い、強烈な個性で大衆を湧かせ、西部前線のオーストラリア兵のもとにも赴いた。愛国心に燃えたヒューズは、帰国後徴兵制の導入をめざしたが、2度の国民投票で否決され、支持基盤であった労働組合とも対立し、労働党から追放された。 1917年には労働党のヒューズ支持派と自由党が合同して国民党を結成し、引き続き政権を担当した。

 1919年のヴェルサイユ講和会議には、オーストラリア代表として出席し、オーストラリアの利益確保と白豪主義を強硬に訴えた。ヒューズは、赤道以南の南太平洋諸島の委任統治権を獲得し、日本が要求した「人種差別撤廃条項」案に対しては孤軍奮闘し、廃案に持ち込んだ。白人の生活安定には移民の制限が絶対に必要であるという彼の信念のなせる技であった。

 国際会議での成功に気をよくしたヒューズであったが、自ら招いた労働党の分裂は政治を流動化させ、1923年、地方党と提携したブルースに国民党党首を譲り、政権を去り、国民党からも離れた。 1929年には、労働調停仲裁裁判法の改正をめぐってブルースを批判し、内閣不信任案を動議して倒閣に成功したが、再度政権につくという夢はかなえられなかった。その後も統一オーストラリア党、自由党と政党を移りながらも、司法長官などを歴任し、白豪主義を貫いた。第2次世界大戦中には、戦争諮問委員会委員もつとめた。

 演説とジャーナリズムへの発言を得意としたヒューズは、それをもとに多くの著作を遺した。 1952年、議員在籍のまま90歳で世を去った。

 酒井一臣00