オーストラリア辞典
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Hobart

ホバート、ホウバート


タスマニア中南部、ダーウェント川河口部に位置する州都。
人口:126,118(1996)、128,603(1981)、95,206(1954)、60,406(1933)、21,118(1881)、14,602(1841)、
1,906(1820)、437(1804)。


 1804年、植民地担当大臣ホバート卿にちなんで、ホバート・タウンHobart Townと命名される。ホバートンHobartonという短縮形が採用された時期もあるが、1881年ホバートという現在の名称が正式に採用された。

 町の背後にそびえるウェリントン山Mt.Wellingtonには、1798年にジョージ・バスが登頂したといわれる。1804年、入植地がリズドン入り江Risdon Coveから、サリヴァン入り江Sullivan's Coveに移動され、デイヴィド・コリンズはホバート・タウンを創設した。町はフランスの入植を妨げる目的で設置されたものであり、町の経済は主にその港の交易に依存していた。グレノーキーGlenorchyのピット農場は、タスマニア最古、オーストラリアで2番目に古い建築物である。1808年建築の旧イギリス陸軍配給部の建物、現在の博物館は、ホバート中心部では最古の建築だとされる。

 1811年ここを訪れたマクウォリー総督は、測量と都市計画の策定を命じ、1813年には全タスマニアの行政の中心となる。捕鯨船の寄港地として発達し、船の建造なども行われた。1816年には『ホバート・タウン・ガゼット』Hobart Town Gazetteが創刊された。18年には、港の入り口の場所に、砲台があったことから、バッテリー・ポイントBattery Pointの名がつけられるが、ここは19世紀のホーバートの面影を最もよく残す場所である。植物園の建設もこの年に始まった。20年代には教会の建設が盛んになり、23年には最初の教会、聖デイヴィド教会が奉献された。この時期造船業がさらに盛んとなり、1850年代までには、オーストラリアで建造される船の半分以上がホバートで建造されるようになった。

 1825年に、ニューサウスウェールズから、ヴァンディーメンズランド(タスマニア)が分離すると、その首府となり、27年までに人口は5,000人に達した。28年に「女性工場」が建てられたが、これは監獄、病人、老人などの収容所を兼ねる施設であった。30年代にはニュータウンNew Townの開発が進み、35年から40年には税関として、現在の議会が囚人労働によって建築された。サラマンカ・プレイスの倉庫の建設もこの頃始まった。37年にはオーストラリア最古の劇場シアター・ロイアルが建設された。

 1842年にシティとなり、43年にはオーストラリア最古のシナゴーグが建設された。1857年にはガスの供給が始まり、総督邸が1855年から58年に建設された。57年にはロンセストンとの電信が開通している。60年代には最高裁判所、博物館、美術館、タウンホールなどが建設された。また、76年には、最後の純血のアボリジナルと呼ばれたトルガニニがこの町で死亡した。その骨はタスマニア博物館に展示さていたが、1976年にようやく埋葬された。

 1876年ロンセストンへの鉄道が開通し、80年にはタスマニア最初の電話がホバートとマウント・ネルソンMt.Nelsonの間に敷かれた。90年には大学が設立され、93年には路面鉄道(トラム)が開通、翌年には国際博覧会が開催された。20世紀に入ると、食料品工業や安価な水、木材、電力を利用した、製紙工業や金属工学が主な産業となったが、工業化は他の都市ほどに進展しなかった。その結果、ホバートが州人口に占める割合は約40%で、他の州都と較べて低い水準にとどまっている。

 クィーンバラQueenborough(Sandy Bay)とニュータウンが1907から20年にホバートに統合された。戦後シドニー・ホバート間のヨットレースは49年に始まり、タスマン・ブリッジTasman Bridgeは64年に開通した。75年には船がこの橋に衝突し12人の死者を出した。67年には大規模なブッシュ・ファイアーで郊外の多くの地域が焼失した。73年にはレスト・ポイント・カジノWrest Point Casino、オーストラリア最初の合法的カジノがオープンした。80年には南極海洋生物資源保護国際局の本部が設置され、翌年CSIROの研究所が設けられた。約100の建物がナショナル・トラストにより指定され、200以上の建物が文化遺産に登録されている。

 藤川隆男1001